5-1 Rain ②
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二〇×二年 二月 二十三日 水曜日(祝日)
早朝の東京駅。
大混雑する新幹線のホーム。
その人混みの中に、東條ヒカルは居た。
ヒカルはコートを着込んでマスクで顔を隠し、運良く空いたベンチに腰を下ろして周囲の様子を窺っている。彼の燃えるように赤い髪は、黒いニット帽で隠されていた。
ヒカルの足元のカバンには、ボロボロになったシルバーのスーツが詰め込まれている。それは彼がヘカトンケイルと呼ばれるハンターに姿を変える時に着用しているものだが、損傷が激しく、今は殆ど意味を為さない。
ヒカルの隣には、幼馴染の泉リリカの姿があった。リリカは手入れの行き届いた長い金髪を一つにまとめて、それをヒカルと同じようにニット帽の中に隠している。二人は自分たちの姿が人の目や防犯カメラに映ることを、可能な限り避けようとしていた。
リリカはマフラーに顔を埋めて、ヒカルの右肩に凭れて眠っている。呼吸は落ち着いているが、長く苦しみ続けたために、その顔には疲れが隠せない。
リリカは中林――彼は「ルシエル」とも「ガブリエル・ポミエ」とも呼ばれていた――の手によって、体内に炎の核を埋め込まれていた。それを知ったヒカルは、朝を待って、彼女を連れてこの東京駅にやってきたのだ。
ヒカルのコートのポケットには、中林が残していった白い封筒がある。そこには新幹線の乗車券と、目的地の記されたメモが同封されていた。
新幹線の行き先は、長野。ヒカルはその文字を見た時、コアトリクエと呼ばれるアナザーを狩った時のことを思い出した。スキー合宿で訪れた、あの山。中林はそこで、二人を待っているのだ。
昨夜発生した地震により、新幹線の運行には大規模な遅れが生じている。運行停止とならないのは、地震の影響範囲が限定的なものであるためだろうか。
ヒカルが第二東京タワー崩壊のニュースを知ったのは、大分時間が経った後のことだった。アオイとは連絡が取れず、淡路にはまだ連絡が出来ていない。だがヒカルには、彼らの無事を直接確かめに行く余裕はなかった。リリカが、居るからだ。
リリカは胸を強く押さえて酷く苦しみ、そうして時折、まるで何事もなかったかのように静かに眠る。もう何度も、それを繰り返している。彼女の顔色は、目覚めの度に生気が抜けていくようだった。
強い憎しみを抱きながら、それでもヒカルは中林を頼らなくてはならないことを理解している。リリカのこの状況に対応できるのは他ならぬ中林のみで、そして彼はそれが分かっているからこそ、二人にチケットを残していったのだ。
アオイと中林のことを思い出す度、ヒカルは唇の端を噛み締めた。第二東京タワーで最後に見た二人の姿が、自分の奥底にあるなにかと重なるような奇妙な感覚がある。
それは記憶を思い出そうとしているというよりも、そこにフォーカスが合うようになったと考えた方が正しいのかもしれない。それらは、常に存在していた。ただ、見ようとしていなかっただけだ。
不意に、耳に飛び込む男の声。
ヒカルが目を向けた先には、黒いカバンを手に駅員に詰め寄るビジネスマンの姿があった。出張だろうか。彼はホームの掲示板を指して、威嚇するように大声を上げている。
男の肩が濡れているのを見て、ヒカルは雨が降り始めたのだと気付いた。ホームの屋根の切れ目からは、圧し掛かるような黒い空が覗いている。
ホームは既に入場規制されていて、人々は僅かなパーソナルスペースを確保することに必死になっていた。皆は俯いて、通信制限で動きの重い掌のスマートフォンを無言で眺めている。そのほとんどが、地震やタワーの崩壊、そしてアナザーのことを調べていた。
タワーの崩壊について、現時点では調査中という発表がなされている。中には他国による地震兵器やミサイルの使用を主張するオカルトじみた意見もあったが、多くの人々はアナザーによるものと考えていた。全ては、アナザーが地震を引き起こした結果というのだ。
昨夜発生した大規模な通信障害は、朝方になってようやく解消され始めた。そしてそれからというもの、ネットの掲示板やSNSでは「アナザー」という単語が僅かな時間に何万回も使用され、瞬く間に拡散されている。
SNSで特に注目を浴びているのは、昨夜の事件当時、第二東京タワーを観光していた人々の投稿だ。彼らは自らをサバイバーと呼び、嘘か本当か分からないような過激な情報を投稿し続けている。
サバイバーと行方不明者の家族や友人らしき人物たちは熱心に情報交換を行っているが、その中には、ヒカルには明らかに嘘だと分かる内容も多く含まれていた。例えばそれは、当日の警察や自衛隊の動きだったり、ハンターたちの行動についてだ。
自衛隊がアナザー相手に発砲し、逸れた弾が民間人にあたった。警察が避難指示を行わず、真っ先に逃げ出していた。ハンターの一人が大けがを負って、亡くなった。或いは、ハンターの正体は、自衛隊の一員であった――など、これらは全て嘘の情報だ。
昨日、あの場所では、誰もが必死に命を繋ごうとしていた。キツネやインドラと呼ばれるハンターの他、ヒカルの姉であるアオイや彼女の部下達も、懸命に自らの使命を果たしていたことだろう。
面白がって嘘の情報を流す人間を見つける度、ヒカルはそれを心から憎んだ。自分の中にそんな感情があったのかと驚くほど、彼は顔も知らない多くの人を嫌いだと思った。そしてそう思う度に、ヒカルはこれまで自分のやってきたことを疑問に思う。
自分が命をかけて守ってきた人々の正体は、こんなものだったのか――?
ヒカルは目をきつく閉じて、自分の心に浮かんだ黒い考えを打ち消した。言ってはいけない言葉があるように、考えてはならないこともある。
アナザーによる被害がここまで甚大なものになってしまった以上、アナザーを狩るハンターに対する世間の目も変わることが予想された。自らの正体を隠すことも、アナザーの力の根源である核を回収することも、全てがこれまでのようにはいかないはずだ。
ヒカルは無意識に、自分の左手とリリカの横顔とを交互に眺めた。
人ではない自分と、今まさに人でなくなろうとしているリリカ。
胸に過ぎる不安を押し殺すように、ヒカルは左手を強く握りしめた。
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