4-10 グッドバイ ④
*
第二東京タワー。三五〇階付近。
「――姉。アオ姉!」
弟の声でアオイが目を見開くと、彼女の視界一杯に不安そうなヒカルの顔が映り込んだ。
言葉を返そうとして、アオイは遅れてやってきた不安や恐怖から息を飲む。眼前にはヒカルの肩越しに果ての無い空が広がり、周囲には強風が吹き荒れていた。
二人は今、三五〇階にある第一展望フロア上部の屋根にあたる部分に居る。
「良かった。アオ姉、どこか打ったのかと思ったよ……」
安堵から疲労を覚えて、ヒカルはアオイの前に腰を下ろした。呑気に休んでいる場合でないことは確かだが、先ずは姉の無事が確認できてホッとしたのだ。
アオイはヒカルに何を言うべきか迷って、結果、なにも言えずに小さな溜息を漏らした。先程の行動の危険性を説いたところで、そんなことはヒカルにも理解出来ているはずだと思い直したのだ。
アオイは無意識に上空を見上げ、ヒカルもそれに続いた。
ヒカルは直ぐに、アオイが見つめている場所が、淡路を残してきた展望フロアだと気付く。
「下の階から、階段で降りていけるかな」
ヒカルは、アオイからも展望フロアからも目を逸らしてそう尋ねた。
「そうね。エレベーターは期待出来ないもの。……今度は、さっきみたいな無茶は無しよ?」
「うん。……ごめんなさい」
ヒカルはそう言って、手元に視線を落とす。彼は自分が口にした謝罪の言葉が、先程の行動ではない別のなにかに向けられているように思えていた。
弟の口調に含みがあるように思えて、アオイはヒカルに視線を向ける。
ヒカルは左手をグッと握りしめたり、開いたりを繰り返していた。
「僕……僕らは、本当に人間じゃないんだよね……?」
ヒカルは姉の方を見なかったし、彼の声は今にも風にかき消されそうだった。むしろ彼は、そうなることを望んでいたのかもしれない。
しかしアオイは、ヒカルの言葉を聞き逃してはいなかった。
「……そうね。私は、人間じゃない。……でも、あなたと私は、違う」
手を伸ばして、アオイはヒカルの頬に触れた。
「姿や形は似せることが出来ても、私たちには命を生み出すことが出来なかった。だから、一つ目のあの人の計画は失敗に終わった――」
今、アオイの脳裏には、第一、第二展望エリアに残してきた人々の姿が思い起こされている。
アオイは、死を迎えた人間の肉体を彼女の力により再生させていた。だがそれは見た目に限ったことであって、彼らは生きている時と全く同じ姿をしながら、そこに命は宿っていないのだ。
命や魂というような実体を持たないものは、一度失えばどうやっても元に戻すことが出来ない。それは、過ぎた時間を巻き戻せないことと同じだ。
ヒカルも今、アオイと同じものを思い出しながら、彼女の言葉を心の中で反芻している。彼が確認した時、誰も彼も安らかな寝顔を浮かべていたが、一人として息をしているものは居なかった。
命を生み出すことと、命を蘇らせることは全く違う。だがそのどちらも、決して叶わないという点では同じようにアオイを苦しめていた。
「……僕とアオ姉は、どう違うの……?」
ヒカルは、耳を塞ぎたいような衝動を抑えながらアオイに尋ねた。彼はその質問が、アオイにとって残酷なもののように感じていた。
アオイはそんなヒカルの心情を視線や口元から感じ取って、彼の優しさを嬉しく思っている。
「あなたが私の弟で居てくれた時間を、宝物のように思ってる――」
嘘偽りのないその言葉は、アオイの意思によらず彼女の口を衝いて出た。
アオイは寒風に晒されて冷え切った弟の頬に、幼い頃の面影を見ている。自分よりも小さくか弱かった男の子が、今では自分の背を追い越し、一人で闘えるまでに成長したのだ。
(きっと、ヒカルの中には、彼女がいる……)
アオイはヒカルの胸を一瞥し、また視線を彼の顔へと戻す。
「なんで、そんな言い方するの?」
ヒカルには、アオイの口にした言葉は不吉なものに思えていた。彼女の口ぶりでは、まるで未来の二人が姉弟ではないように思えたのだ。
アオイは、直ぐには言葉を返さなかった。彼女は弟が賢いことを理解していたので、言葉を選んで話すべきだと考えていた。
そして、そんな二人の間に流れていた無音の時を、空からの騒音が乱した。
遠くから聞こえる爆発音。
ほんの僅かに遅れて、ガラスの割れる音。
二人は、音のする方を見上げて立ち上がった。なにかが、四五〇階の第二展望フロアから凄まじいスピードで近付いてくるのが見える。それは、まるで枯れ枝のような翼を持つ、一人の人間だった。
不慣れな様子で着地するとその人間――中林は、先程まで自分が滞在していたフロアを見上げて感嘆の声を漏らした。
「願えば、叶う! なんと素晴らしい……」
中林は汚れた白衣を両手で払い、それからアオイの方へ視線を向ける。彼の背中に生えていた翼は音を立てずに徐々に折れ曲がり、中林の体に取り込まれるようにして消えていった。
ヒカルは傍に立つアオイの手が、小刻みに触れていることに気付く。その意味は、彼にも直ぐに理解出来た。
「私が合図したら――」
その声は、ヒカルの耳にだけ届く。
「真っすぐに、家に向かいなさい。なにが起きても、決して振り返ってはダメ」
ヒカルは、思わず身震いした。
この時ヒカルはアオイに言葉を返さなかったが、彼の絶望的な表情は、対面する中林に二人の会話を予想させるだけの充分な材料を与えていた。
中林はぐるりと周囲を見渡して、それから満足気に口の端を持ち上げる。
「どうやら、彼は死んだようだ」
中林の言葉は、南城ケイイチロウを指していた。だが彼はその言葉を、別の人物にも向けている。
アオイはそれを聞いても、表情一つ変えなかった。中林の言葉が炎のアナザーを指しているということは、周囲からハンターが姿を消したことからも予想がついている。なにより、今は弟をこの場から逃がすという目的が、彼女に冷静さを保たせていた。
「惜しいことをした。彼は、自分には才がないと思い込んでいたが……。残酷だ、この世界は。求めるものと、持ち得るものとがイコールとは限らないのだから」
中林の瞳が、薄らと金色に光る。
「肉体が強くなければ、核の力に適応出来ない。だが強い心が無ければ、人の姿を保てない。……彼は、それを無意識に理解していたのだ。尊敬に値する」
(偽物とはいえ……)
中林の最後の言葉は、心の中でだけ呟かれていた。彼が南城ケイイチロウに渡した核は、キツネやインドラの予想通りフェイクだ。
中林の脳裏には、西園寺アンズと南城ケイイチロウの姿とが浮かんでいる。彼らは中林が直接アナザーに導いた者たちの中でも、成功と呼べる被検体だ。
西園寺アンズも南城ケイイチロウも強い肉体の持ち主ではなかったが、彼らは早くに核の力に適応し、肉体を強化させていった。彼らにそれを可能にさせたのは、執着とも呼べる強い思いがあったからだ。
西園寺アンズには、自己犠牲的な愛情が。そして南城ケイイチロウには、健康的な生を謳歌することへの憧れがあった。二人がアナザーとしてハンターたちの脅威足りえたのはその強い思いのためだが、その思いが彼らから人の姿を奪ったのもまた事実である。
「強い体と、強い心とが必要なのだ」
中林の言葉はアオイとヒカルとに向けられていたが、彼は自分にも同じ言葉を言い聞かせていた。
「……ようやく、分かった気がする。あなたの目的が」
今にも風に攫われそうな、アオイの呟き。
ヒカルはそれを辛うじて拾って、次に発せられるアオイからの合図を待った。彼の中には、姉をこの場に残していくことに対する不安などもはや残っていない。アオイから突如発せられ始めた恐ろしい気配が、彼からそういった一切のものを奪っていくのだ。
アオイを取り巻く空気が震え、地面は気味の悪い音を立てている。
中林は、アオイが自分に強い敵意を向けていることには気付いていたが、今はそれを悲しんではいなかった。彼は互いの間に障害があるのを理解しているが、それは単に誤解によるものであり、そして必ず解消されると信じている。
中林にとって、彼自身は常に許す側の存在であり、アオイは許される側の存在なのだ。
「イリス。この世界は、悪に満ちている。だが、希望は常に失われていない。まだ、私と君が居る。そうだろう?」
中林の口調は、父親が子どもを宥めるようだった。事実、彼は自分がそうすることで、今まさに爆発しようとしているアオイの力を抑えることが出来ると考えている。
中林にとって、彼自身は常に正義の遂行者であり、アオイは悔い改める者なのだ。そしてその考えは、彼の口調からありありと滲み出て、耳にするもの全てに伝わっていた。
ヒカルは目の前の男が、自分の知っている中林とはもはや別人なのだと理解する。彼は、もう死んだのだ。
「……怖い顔だ」
中林は、ヒカルへと声を掛けた。
「ヒカル。君は、此処に居ていいのかな? 此処で守られていては、君の大切なものを守ることが出来ない。……違うだろうか?」
中林の言葉を耳にして、ヒカルは息を飲んだ。彼の脳裏には、家に残してきたリリカの姿が浮かんでいる。
肩をガタガタと震わせて、ヒカルはアオイの名を呼んだ。彼は続けてこの場を頼むと伝えるつもりでいたが、その思いは言葉にならなかった。
行きなさいと、アオイが囁く。
ヒカルはアオイの背中から、滲み出るような負のエネルギーを感じ取る。
「ああ、イリス。聞いておくれ。私たちは……」
「さようなら」
中林の言葉を遮って、アオイは地面に向かって手をかざした。
タワーが激しく揺れ出すのに合わせてヒカルは駆け出し、空に向かって身を躍らせる。
都会の夜空のような、夜の海のような、光の乏しい暗い世界。
ヒカルは、その中へと飛び込んでいった。
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