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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
Another

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284/408

4-9 「情」 ⑪



 同時刻。

 ふと我に返り、インドラは目を見開く。咄嗟に腕時計を確認して、彼はそれが動かなくなっていることに気付いた。


(気を失っていたのか……)


 まさかの事態に動揺しつつも、インドラは周囲を見渡し、それほど長い時間が経過している訳ではないことを理解する。街は暗闇に包まれたままで、目の前の巨大な電波塔にも明かりは灯っていない。なにより、まだケイイチロウの気配が残っている。


 微かな気配を頼りに、インドラはタワーの真下まで歩いて行く。タワーの周辺は、どこも嫌な臭いが充満していた。煙たく、生臭く、鼻を衝く臭いだ。


「――起きたか。馬鹿め」


 タワーの真下には、キツネが居た。


 キツネの足元には、グズグズに溶けたなにかが広がっている。その中央から生えているものが人毛だと気付いて、インドラはそれがケイイチロウの変わり果てた姿だと理解した。


「まだ、生きているよ」


 キツネの声に、インドラは違和感を覚える。まるで毒気を抜かれたような、少女を思わせる声。


「時々、なにか……呟いているよ」


 キツネの言葉は誰に向けられたものでもなく、ただ淡々とケイイチロウの状況を声にしているだけだ。


 インドラはキツネの後方で脚を止めたまま、地面の塊に目を向けた。キツネはケイイチロウが言葉を発しているように言ったが、いくら耳を澄ませてみても、インドラにはなにも聞こえてこない。


 キツネはインドラが目を覚ます数分前にようやくケイイチロウを発見し、それからこうして彼を眺めていた。人の姿を失った実の兄を、同情でもなく、侮蔑でもなく、後悔もなくただ見守り続けている。まるでそれが、義務とでもいうように。


 インドラは、直ぐにでもケイイチロウにとどめを刺したいと考えていた。だがキツネの背中から漂う空気が、それを許さない。


 キツネは肩を落とし、刀を持たぬ手は空気を掴んで、ケイイチロウの傍に立ち尽くしている。


「キツネ。これ以上、犠牲は出せない。君に、核は渡せない」


「……そうだろうな」


 まるで他人事のようなキツネの返事に、インドラは警戒を強めた。これまで、あれ程までに核への執着を見せてきた彼女が、弱り切ったアナザーを前にただ眺めているという状況。それがインドラに、強い違和感と不吉な予感とを覚えさせている。


 変わり果てた姿で地面にへばりつく兄を、なおもキツネは眺めていた。そして同じ時、地面に居る兄もまた、自分を見下ろす妹の姿を見ていた。ケイイチロウの目に映る妹はキツネの面で顔を隠していたが、彼はその奥に軽蔑の眼差しがあることを思っている。


「……きっと、私は混乱しているんだと思う。お前が来たからな。余計に」


 ポツリと呟いたキツネの言葉を、インドラとケイイチロウが拾う。


「話が見えない」


「お前、核の気配は分かるだろう?」


「分かる」


「そうだろうな。……同じだよ、私も」


 キツネは細く息を吐き出すと、一呼吸置いてから、「水を操る女のことを覚えているか」とインドラに問いかけた。


 インドラはクリスマスの日にアドベンチャーニューワールドで起きた出来事を思い出しながら、「覚えている」と答える。


 数秒程の、僅かな沈黙。


 その中でインドラは、キツネと同じ答えに辿り着いた。


「キツネ。それは……」


「ああ。……これは、誰かによって生み出された……紛い物かもしれんな」


 皆を騙すほどに精巧に作られたフェイクだと、キツネは独り言のように呟く。


(本物の兄が、偽物として死ぬ……)

「余りにも、惨めったらしいじゃないか……」


 キツネが淡々と口にしたその言葉は、地面で動くこともままならないケイイチロウの上に降りかかる。彼はその時、まるで唾を吐きかけられたかのような極度の不快感を覚えた。


(ミ……ジメ……? ミジメ……? ……ぼくが……?)


 それは本当に自分に向けられた言葉なのかと、ケイイチロウの脳は混乱している。その言葉が存在することは知っていても、それが南城ケイイチロウという男に向けられることなど、彼にとってはあり得ないことだった。


 この時キツネはケイイチロウの混乱など知る由もなく、キツネ面の奥では今にも泣きだしそうな顔をしていた。それを誰にも悟らせなかったのは、彼女のプライドの為だけではない。


「根拠」


 ボソッと、インドラが呟く。彼はキツネに問いかけるのと同時に、自分の頭の中でも思考を展開させている。


 インドラはこれまでに幾度もケイイチロウと接敵しているが、その気配が偽物だと感じたことは一度として無かった。だがケイイチロウの体が消滅する間際となって初めて、彼もそこから感じる気配に違和感を覚えたのだ。


「根拠……か。ないよ、そんなもの。……勘だ」


「勘、か」


「そうだ。女の勘だ。……別に、信じなくても構わん」


「分かった。信じる」


 あっさりと返したインドラの言葉に、キツネは思わず呆気にとられて、それから少し表情を緩めた。


「どちらにせよ、斬り捨てれば分かること――」


 絆されそうな自分を戒めるように、キツネは刀を手にする。


(恐らく、この状態では既に自我など存在しないが……。せめて最期まで、立派に、敵として……)


 刃を地面に向け、両手で柄を握り、キツネはケイイチロウ目掛けて最後の一撃を放つ。


 この時ケイイチロウは、迫る刃に込められた同情を感じ取った。


(……てやる。……殺してやる――!)


 突如として膨れ上がる、負の感情。


 ケイイチロウの体は、キツネの刃をその身に受ける直前にマグマのように溶け、そして膨張した。


 遥か彼方、空まで届くような、巨大な火柱。


 空を染め上げるようなそれは矢のように真っすぐ空へ向かい、タワーは一瞬にして炎に包まれる。それは僅か数秒程の出来事だったが、ヒカルやアオイたちの居る展望エリア付近にまで影響を与えていた。


「キツネ!」


 噴火するように飛び散ったケイイチロウの欠片をガントレットで弾きながら、後退し、インドラは辺りを見回しキツネを探す。


 頭上からはパラパラと、砂やガラス片が降り注いでいた。


 この時インドラが注意深く空を見上げていれば、タワーの端々が焼け焦げ、燃え尽き、脆くなっていることに気付いただろう。だが彼の目は空へは向かず、意識はキツネの残影を追う。


「――ここだ」


 キツネはケイイチロウから離れた鉄骨の隙間で、腹を手で押さえて片膝を落としていた。


 あの瞬間、キツネは咄嗟に後ろへ跳んだが、回避し切れずに体に炎を浴びていたのだ。無意識に能力を展開させガードしていなければ、彼女は取り返しのつかない大怪我を負っていただろう。


 空気が揺れ、先程までケイイチロウが居たその跡には、炎を纏うワーム状の生物が蠢いている。それは接する地面をジワジワと溶かしながら、更に自分の体に吸収しているようだった。


 人の姿を捨てた者たちの末路を思い出し、インドラは拳を固く握り締める。


 可能であれば、人である内に終わらせたかった――。今、インドラとキツネとは同じ思いを抱いている。

 インドラは腰を落とし、ケイイチロウへ向けて構えをとった。


「行けるか」


「誰に、聞いている?」


 キツネは既に立ち上がって、刀の柄に手をかけていた。彼女の着物は一部が焼け落ちて、中に巻いたサラシが露出し、片袖がずり落ちている。


「――だが、悪いが最初から、最大火力で行かせてもらう」


 柄を握るキツネの手は、蓄積されたダメージと疲労のために震えていた。既に視界は狭まり始めており、脚は地に張り付いたようだ。


 キツネの様子を見て、インドラは無言で頷く。弱音こそ吐かないでいるが、キツネは既に限界なのだと察したのだ。


 行こう、と、インドラが呟く。


 殺気を覚えたケイイチロウが、奇声を上げて威嚇する。彼は人の言葉を叫んだつもりでいたが、目や耳や腕や足と同様に、それは既に失われていた。


 どちらが頭とも見分けのつかないその体の一方を大きく持ち上げて、ケイイチロウは炎を吐き出し辺りを焼く。炎は波のようにうねりながら、あっと言う間に周囲に広がった。


 インドラもキツネも、回避の為の動きを最低限に留めている。髪の先や袖先がチリチリと焼かれても、二人はケイイチロウとの間合いを一定に保っていた。


(奴の攻撃は、一撃必殺。……なれば)


 役割を理解して、キツネは刀に意識を集中させていく。


 キツネが発する明確な殺意に勘づいて、ケイイチロウは体を彼女の方へ大きく傾けた。


(お前が! お前なんかが……!)


 ケイイチロウの声は声にならず、ビルの間を風が通り抜ける時のような音となって響く。


(お前みたいな、偽物が……!)


 ケイイチロウは、泣いていた。彼は妹を罵りながら、その実、自分を呪っていた。既に視力を失った彼の中では、思い出の中の妹の姿が映し出されている。


 ケイイチロウの記憶の中で、妹が笑った。


 ケイイチロウが、「何故そんなに笑うのか」と問えば、妹は「兄さんが笑うから」と、大口を開けてまた笑う。


 ケイイチロウの記憶の中で、妹が涙を流している。


 ケイイチロウが今度は、「なにを泣いているのか」と問えば、妹は「兄さんが泣いているから」と、口の端を噛み締める。


(いつも、後ろを、ついて回り)


 ケイイチロウの口が、言葉にならない小さな音を発している。


 妹は文武両道に徹し、正に非の打ちどころのない優等生だった。だが、いつも大人にとっての「良い子」を演じながら、彼女は時折、一人で庭の池の傍に蹲り歯を食いしばって泣いていた。


(ぼくは、お前が……。お前だって、ぼくが……)


 ケイイチロウは、ボロボロと泣いた。それは流れる傍から蒸発して、周囲に硫黄のような臭いを撒き散らす。


 人を捨てた後になってようやく、ケイイチロウはなにか思い出そうとしていた。


(すまないな、こんな最期で。辛かろうな、こんな偽物が妹で)


 ケイイチロウが炎を吐く度、キツネはそれを自分に向けられた侮蔑の言葉のように感じていた。美しかった兄は今、毛虫のような姿で地面を這っている。


(努力するのは当たり前。出来て当然。トップに立つのは必然――。そういう思いで、生きてきた。そうすれば)

「――こんな私でも、本物になれるかもしれない――」


 キツネが引き抜いた刀が青白い光を放ち、それらはケイイチロウへと向かっていく。


 ケイイチロウは、なにか強い力が自分の身に向かってくることに気付いた。だが手足も翼も持たない今の彼にそれを回避する術は無く、彼は蛇が鎌首をもたげるように体の一方を持ち上げた姿で、幾本もの巨大な氷の刃によって地面に固定されてしまう。


 ケイイチロウが炎による反撃を試みた時には、もう彼の体にはインドラの拳が突き刺さっていた。ケイイチロウの体にぽかりと開いた穴からは、向こうの景色が見えている。


 キツネは地面に降りて、片膝を着いた。彼女の目には、地面から生えたような奇妙な姿で静止している彼女の兄が映っている。兄の体に開けられた穴から全身に向かって亀裂が走り、彼の体を覆っていた炎は音もなく消えていく。


 そそり立つ炭のような塊。


 これがあの兄なのかと、キツネは思わず口走りそうになった言葉を咄嗟に飲み込んだ。今の兄に言葉を掛けることは、彼に対する侮辱のようにすら思えた。


 そんなキツネの耳元で、羽虫の大群が迫るような不愉快な音が響く。


 朝が来たのかと見紛うほど、辺り一帯が輝いた。それに続けて、空から落ちてくる矢のような光。


 止めろと、キツネは心の中で祈る様に叫んだ。


 だが無情にも、巨大な鉄塔を貫きながら落ちてきた雷で、ケイイチロウの体は完全に砕け散る。


 キツネは無意識に、雷の影響を回避しようと体を動かしていた。しかし彼女がその事実に気付いた時には、既にインドラが次の行動に移っていた。インドラは、間髪入れずにキツネを倒しにかかったのだ。


 視界一杯に飛び散った兄と、その向こうから伸びてくるシルバーのガントレット。


(兄さん……)


 体に走る、鋭い痛み。


 キツネの視界からは、光が消え去った。

月・水・金の21時に更新中……


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