4-9 「情」 ⑧
*
同時刻。
第二東京タワー周辺。
遠くから聞こえてくる音。音。音――。
それらから意識が遠ざかる度、北上の脳裏には古い記憶が蘇る。
幼い頃を過ごした、小さな町の雪景色。
耳が千切れそうな寒風。
赤くなった鼻先に、ジンジンする足の指。
潮交じりの雪風の匂い。
厳しく無口な、施設の職員たち。
いつの間にか増え、いつの間にか消えていく子ども。
一度だけ見た、養母の涙。
それらが一度に押し寄せ、そして消えると、今度は東京の「じいさん」との生活が思い出される。
酒に強く、喧嘩に強く、仕事一筋で竹を割ったような性格の「じいさん」。空手の指導者でもあった彼は、北上に道着の着方から拳の握り方、型の一切を叩きこんだが、料理や掃除といった家事はからきしだった。辛うじて教えてくれたのは、洗濯と酒の味だけ。
じいさんとの平和な日々。
突然の別れ。
停滞する日常。
そして、突然の始まり――。
意識を自己の奥深くへ向けると、北上の中には、いつも最後に光が生まれた。そして手の届きそうなそれに触れようとした時、彼の中に駆け抜けていくものがあるのだ。
嵐のように。
津波のように。
体中を駆け抜けていく、稲妻。
閉じていた目をゆっくり開くと、北上の眼前には聳えたつ巨大な電波塔。
ジジッという耳障りな音と共に空気が揺れ、周囲一帯の街灯が明滅する。
(……ちょっと! ねえ!)
アンズの動揺する声。
キツネは、周囲に地鳴りのような音が響いていることに気付いた。
(ビリビリ! なにかする気だわっ!)
アンズが網を引くように細い腕を素早く動かすと、タワーの傍を流れていた川の水がズズズッと頭を持ち上げ、うねり、巨大なウミヘビを思わせる姿に変わる。
この時キツネは、アンズが一度に大きな力を使ったことの反動を受けていた。彼女の視界はほんの僅かな時間――それも彼女自身ですら気付かないほどの刹那――だが、歪み、欠けていたのだ。
「騒ぐな。奴がなにをしようとて、目的は変わらん」
キツネはその言葉を、自分に言い聞かせている。
行くぞと、キツネは上空のケイイチロウを睨みつけた。ケイイチロウはタワーの鉄骨の間を縫うように、地上から十メートルほどの高さを飛び回っている。
(やはり、狙いはインドラの雷か……?)
(巻き添えは、ごめんだわっ!)
アンズの手の動きを合図にして、巨大なウミヘビはタワーに幾重にも巻きついた。ケイイチロウを、鉄骨の間に閉じ込めようというのだ。
当然逃げられるものと思い込んでいたケイイチロウは、アンズの攻撃への対応が僅かに遅れた。そして、それが彼の自由を奪った。
ウミヘビは鉄骨の隙間を埋めるように膨張し、次第にケイイチロウを中心として収縮を始める。
三六〇度を囲まれ、迫る水の壁による圧を受けながら、ケイイチロウはそれでも冷静だった。彼はありったけの火力を注いで道を開けようと試みるが、水は蒸発する傍から供給され、水壁は復元し続ける。
折れた鉄骨や割れたガラスで周囲が騒がしくなる中、ケイイチロウは空だけが異常な程に静かなことに気付いた。地上では地面が裂けんばかりに揺れ、砕けたコンクリートやガラスが悲鳴を上げ続けているというのに、上空からはなにも聞こえてこない。
ふと、胸に走る痛み。ケイイチロウが視線を向けた先には、胸を貫く氷の刃。
キツネはタワーの下で掌を合わせ、意識を集中させていた。彼女の中に流れ込むイメージは、水球に閉じ込められた兄が、四方から氷の刃に貫かれ、そして圧死する様だ。
(ああ……嫌だな……終わりかい……?)
迫る水の壁から次々に飛び出す氷の刃を身に受け続け、ケイイチロウの口の端からは血が流れていた。
(せめて最期に、もう一度……)
空がキラキラと輝くように見えて、ケイイチロウは光に向かって手を伸ばす。
そして、周囲からは全ての音が消えた。
砕け落ちるコンクリート片。
バラバラと宙を舞うガラス。
続いていた地鳴りも消え、その場に居た誰もが世界の時が止まったように感じた。
全身に粟立つものを覚えて、キツネは無意識に空に跳ぶ。
空が真昼かと見間違うほどの光を放ち、それは直後に塔の先端に導かれるようにして走った。
叩き付けるように、踏み鳴らすように、轟音と共に鉄塔を駆け下りる稲妻。空が落ちてきたのではと見間違うほどのそれは、凄まじい熱と音とを残して消え去った。
夜の海に波が広がる様に、静かに街の灯が消えていく。それは連鎖的に広がり、そしてどこまでも拡大し続けていた。
「……加減を! 知らんのか!」
宙で気を失い、半身の溶けた姿で落下してきたアンズを受け止めて、キツネは片腕で抱くようにしてそれを再び吸収する。
キツネは咄嗟に空中に跳んで回避していたが、それでも地面から伝わる衝撃を僅かに身に受け胸に痛みを覚えていた。
鳴り響く車のクラクション。
悲鳴に、怒号。
混乱する街の音を聞きながらインドラは歩いていき、傍にあった植え込みの前のベンチに腰を降ろした。ベンチの片脚は、落雷の際に地面に生じた衝撃でひしゃげている。
(キツネは回避。あの男は……)
暗闇の中で気配を探りながら、インドラは、ケイイチロウのそれが消えかけていることを知る。彼は鉄塔の内側にいたが、水球に閉じ込められながら、雷の影響を受けたのだ。
(……少し、疲れた……)
まだキツネが傍に居ることは分かっていたが、抗えない睡魔に襲われて、インドラは段々と目を閉じていく。
早く家に帰りたいと、インドラは心の中で呟いた。
彼の目の裏で、子猫が一度、甘えた声で鳴いた。
月・水・金の21時に更新中……
次回は、2月21日(水)21時を予定しています。




