4-9 「情」 ⑥
*
同時刻。
(多分、俺は女が嫌いなんだろう――)
迫る斬撃を、四方から飛んでくる矢を薙ぎ払って、ケイイチロウは空を舞う。
ケイイチロウの脳裏には、これまで関係を持った女たちの唇や指や胸が思い起こされている。それらは彼に一時の甘い夢を与え、そして同時に奈落の底のような絶望に追い立てる厭悪の対象でもあった。
(俺は多分……男も、嫌いなんだろう)
ケイイチロウの前に、空一面を覆うような透明な網が現れた。それが水で出来ているのだと察して、彼は周囲一帯を焼き払い蒸発させる。
夜空を絶えず移動しながら、ケイイチロウはキツネからの攻撃を回避し続けていた。彼の体は、今にも爆発しそうな内側からのエネルギーと、それを抑圧する感情とでねじ切れそうな程の痛みを覚えている。
その痛みを抱えた体で空を駆ける度、冷たい空気を体いっぱいに取り込む度、ケイイチロウは自分が浄化されていくように感じていた。それは空に溶けていくような、これまで味わったことのない感覚だ。
(俺は……俺が一番、嫌いなんだろう――)
ケイイチロウが母親の不義に気付いたのは、彼が大人と子どもとの境に居た頃のことだった。
父親が不在の、とある夏の日。
家中に響くような、電話のベル。
汗をかいた麦茶のグラスに、透き通るような風鈴の音。
電話の受話器を耳に当てた母親が、ふと見せた別人のような横顔――。
ケイイチロウがそれを目にした時、まるでそれが合図だったとでもいう様に、彼の中には物事の一切が流れ込み事実を示したのだ。
事実は家族の中にあって、そしてそれは様々な角度から家族を支えていた。ケイイチロウにとって不幸だったのは、彼がそれを理解出来る程には大人であったということだ。
成長するほどに、父親とは似ても似つかない妹。
罪の意識さえ感じさせない母親に、娘を溺愛する父親の姿。
心に溜め込んだ、負の感情。
そうしてケイイチロウは、全てを自分の内側へ押し込めた。
(死にたくて、苦しくて……でも、まだ生きてみたくて………。ああ、それが、このザマなのかい。参ったね……)
肌が疼いて、ケイイチロウは泣くような、怒ったような顔で笑う。
体の奥底で、なにかが泣き喚いている。
その声には耳を貸してはいけないと、なけなしの理性が叫ぶ。
今にも誘惑に呑まれそうな心と体とを蔑む、もう一人の冷静な自分が居る。
両腕で自分を抱えるようにして、ケイイチロウは真っ二つに裂けてしまいそうな体を抑え込む。
(あと、どれだけ……)
指先が既に人でなくなり始めていることに気づいて、ケイイチロウは消えていく感覚を追い続ける。
時は、刻一刻と迫っていた。




