4-9 「情」 ①
九、「情」
二〇×二年 二月 二十二日 火曜日
二〇時五十五分。
ヒカルが三五〇階に到着した時、そこに彼の最愛の姉の姿はなかった。
黒く焦げて煤だらけになったフロアには、十数人の裸の男女と子どもとが並んで横たわっている。彼らは皆、胸の上に両手を重ねていて、その姿はまるで祈りを捧げているように見えた。
一番近くに居た男性に近寄って、ヒカルは彼らが息をしていないことに気付く。此処に居る者は皆、表情も柔らかで眠っているように見えるが、誰一人として動いているものはいない。だが、死んでいるようにも思えない。まるで、よく出来た人形のようだ。
ヒカルは彼らについてもっと調べるべきか、階下へ降ろすべきかと考えたが、人数の多さもあって諦め、先に姉を探すことにした。
火災があったというのに、上の階へ向かうエレベーターはまだ動いている。ヒカルはそれに気付くと、先ず四四五階へ上がり、そこから最上階の四五〇階へ向かって歩いた。
途中、回廊から街の灯りを眺めて、ヒカルは目を細める。彼の目に映る街の輝きはリリカの涙のようで、瞬きする間に移り変わる景色は、いつか眺めた巨大な水槽の世界のようだ。
次は二人で観るのだと、ヒカルは強く心に誓った。なにをしてでも、リリカの待つあの家に戻るのだ、と。
四五〇階。
到着して直ぐに、ヒカルはこの階にも火災があったことを知る。途中の回廊には目立った影響がなかったところを見ると、三五〇階と四五〇階の火災は、それぞれ別々に起こったもののようだった。
ヒカルは脳裏に、ケイイチロウの姿を思い浮かべる。そして彼の予想通り、四五〇階の火災もまた、ケイイチロウが引き起こしたものであった。
ケイイチロウはアオイの元へやってくる直前に、暇つぶしとばかりに上の階も焼いていたのだ。火災はスプリンクラーによって消火されていたが、中に居た人々は全員が犠牲になった。
フロアをぐるりと取り囲む巨大な窓の傍をなぞるように歩きながら、ヒカルはやがて前方に蹲る人影を見つけた。全身から淡い光を放つそれは、両腕に黒い塊を抱いている。
「あなた……」
聞き覚えのある声が、耳に届く。ヒカルはそれが姉の声だと気付いたが、脚は彼の意思に反して止まる。
光を放つアオイは、髪も瞳の色もすっかり変わってしまっていた。それは普段の赤毛ではなくリリカのような金髪で、ダークブラウンだった瞳は金色に輝いている。
立ち止まり、動けずにいるヒカル。その眼前で、アオイの腕の中にあった黒い塊は段々と変化し、やがて人へと姿を変えていく。
アオイは生まれたままの姿のそれを床に寝かすと、頬を撫でて、両手を胸の上に揃えてやった。彼女が放っていた淡い光は、いつの間にか消えていた。
なにが起きているのか理解が追いつかず、ヒカルはただ、立ち尽くしていた。頭の中には、階下で見た光景が蘇っている。あれらもまた、アオイによるものだったのだ。
アオイは立ち上がり、ヒカルを見る。
ヒカルはゴーグル越しに見る姉の姿が、いつか夢で見たものと全く同じであることに気付く。
「――ヒカル……?」
アオイの声が、ヒカルの耳を貫いた。




