4-8 (痛いくらい)愛してる ⑫
*
二十時三十九分。
「――それで? 一体、私に何の御用?」
西園寺アンズは右手を口の前に当てて、大きな欠伸をしている。膝の上に乗せたペンギンの大きなぬいぐるみの腕には赤いリボンが巻かれていて、それはアンズの左腕にしっかりと抱かれていた。
キツネは手にしていた刀を、アンズの首元目掛けて振るう。
パシャッと水風船が割れるような音がして、アンズの首は胴体から離れ、蒸発した。
「怖いわ。それが、人にものを頼む態度には見えないのだけれど?」
キツネの後方から、呆れたようなアンズの声。
キツネが振り返ると、彼女の後ろには空中で逆さになった椅子に腰かけるアンズの姿があった。アンズの向かいには、ペンギンのぬいぐるみが腰かけている。アンズはティーポットをヒョイと持ち上げると、慣れた手つきでカップに紅茶を注いでいく。
「分かっているだろう。私が死ねば、お前も終わりだ」
キツネは逆さに浮かぶアンズの顔面目掛けて、刀を構える。
「あら。そんなこと? いつもは『出てくるな』って煩い癖に。そんなこと、もう私にはどうでもいいことだわ。私はもう、貴方に殺されているんですもの」
ペンギンに微笑みかけて、アンズはカップを指で摘まむ。
「神になるのでしょ? だったら、見せて頂きたいわ」
嫌味タップリのそのセリフで、キツネは再びアンズの体を切り裂く。
水が飛び散って、アンズはまた別の場所から姿を現した。彼女はペンギンと向き合い、頬杖をつきながら宙に寝そべって、脚をパタパタとリズミカルに動かしている。
「僅かな間、お前を実体化してやる。人の中で遊んでばかりいないで、たまには役に立ってみせろ」
「やあね。酷い言い草。素直に、『核の力を持てあましているから助けて』と、そう言ってくださる?」
クスクスと笑うアンズ。
キツネは一呼吸置くと、アンズの体を瞬時に凍らせて跡形もなく砕いた。
キラキラと宙を舞う氷の粒が、楽し気に笑う。
西園寺アンズはアナザーとして退治された後、キツネに取り込まれ同化している。彼女はキツネの中に存在する記憶を頼りに自身を形作っていたが、人の血肉を持たず、爪の先から髪の一本一本に至るまで全てが水であった。
「ああ、怖い。……でも、そうね。そろそろ、退屈していたところ」
レースの日傘を広げて、アンズはフワフワと空に浮いている。傘を持たない左手は、ペンギンのぬいぐるみと繋がれていた。
「退屈か。いい身分だな。だが、お前の――」
「待って!」
キツネの言葉を遮って、アンズは空を見上げた。
アンズの只ならぬ様子に、キツネも意識を外界へと向ける。
「――お前」
キツネが目を開くと、そこにはヘカトンケイルの背中があった。彼女よりも少し背の低いその少年は、辛うじてスーツの残っている右腕を楯のように構えて、ケイイチロウの放った火球を凌いでいる。
キツネはそれに気付くや否や、ヘカトンケイルの前に出て火球を斬り捨てた。
(庇われたのか)
(……まさか! どうして? でも、これは……)
頭の中に、自分の呟きと同時にアンズの声が響いて、キツネは思わず右の蟀谷を押さえる。
アンズはなにかに動揺している様子で、幾度も同じ言葉を呟いていた。それは、人の名前のようにも聞こえている。
アンズがキツネの目を通して見た光景は、いつかの見覚えのあるそれに似ていた。それは彼女が恋に落ちた時の、甘い思い出でもある。
「良かった……」
その言葉を耳にして、キツネはヘカトンケイルの方へ視線を向けた。
ヘカトンケイルはキツネの無事を知って、胸を撫で下ろしている。彼のスーツは高熱によって表面が硬質化したのか、残っていた右腕にも亀裂が入り始めていた。
キツネは口を開こうとして、言葉を失う。あの状態からでも、彼女には回避することが可能だった。しかし、敵を前にして、例え数秒であろうと不注意であった自分に責があるのは明白だ。それにより他の人間を傷つけたという事実に、キツネは胸を痛めている。
だがなによりも辛いのは、ヘカトンケイルが自分を労わる言葉を吐いたことだった。
キツネは、足元に視線を落とす。
遠くではインドラが闘い、上空ではケイイチロウが怒りのままに咆哮を上げている。
(……くん! 聞こえる……? ねえ、東……くん!)
キツネの頭の中では、アンズが騒いでいた。彼女は必死になって、外の世界に声を届けようとしている。
キツネはヘカトンケイルに背を向けて、地面に刀を突き刺した。
ケイイチロウがキツネの動きに気づいて、翼から幾つもの炎の羽根を飛ばす。
「――来い」
キツネが両掌を強く打ち付け、辺りには無数の透明な塊が浮かび上がる。それらは向かってくるケイイチロウの放った羽根の一枚一枚を、包み込むようにして全て消し去った。
無数の透明な塊が一つになって、やがてキツネの傍らには人形のようなものが現れる。夜の色をそのままに写すそれは、形こそ人のように見えたが、目鼻立ちまではとても判別出来そうになかった。
(私……どうして気付かなかったの? 彼は此処に居たのに……)
キツネによって具現化されたアンズは、ヘカトンケイルの方へ顔を向けて、うっとりとした表情を浮かべている。アンズの声はキツネにしか聞こえず、その表情も彼女にしか見えない。
「気味が悪いねぇ……。だが、なにをしたとて、お前たちが死ぬことに変わりはない。そうだろう?」
ケイイチロウが声を上げ、先程と同じように炎の羽根を飛ばす。大きさも数も先程の倍はあろうかというそれは、より鋭く、より速く彼らの元へ向かってきた。
行けと、キツネが顎で示す。
(あら。言われなくたって――)
アンズが手をかざすと、空には透明な塊が現れた。クジラのような形をしたその巨大な塊は、彼女の手の動きに合わせて空を泳ぎ、全ての炎を飲み込んでいく。
(指一本、触れさせないわ!)
全ての羽根を飲み込むと、クジラを模した塊は空中ではじけ飛んだ。
辺りに飛び散った水を傘で防いで、アンズはそれを楽し気にクルクルと回している。
ヘカトンケイルは自分の周辺だけが濡れていないことに気付いたが、その理由には理解が及ばなかった。彼には、アンズの姿は見えていないのだ。
「――兄さん」
ケイイチロウは、背後から聞こえた妹の声に驚き、体制を崩した。
キツネはケイイチロウの背後に回り込んでいて、彼の背中へ向けて刃を振るう。彼女は辺りに撒かれた水を瞬時に凍らせながら、地上から数メートル上空にいる兄の元へと一気に駆け上がったのだ。
「化け物かっ……! お前は!」
ケイイチロウが身をひるがえし、キツネに対して構えを取る。彼の手には、無意識に炎の刀が握られていた。
キツネの攻撃を刀で受け、ケイイチロウは彼女の腹に向けて右足を蹴り込む。キツネはこれを避けて、そのまま真っ逆さまに地面へと戻った。
「あの! キツネさん!」
駆け寄るヘカトンケイルを、キツネは手で制する。
「……お前、一つ、頼まれてくれないか?」
「頼み?」
ああ、と頷いて、それからキツネは一瞬言葉を躊躇った。彼女の目に映るヘカトンケイルには、何故かアンズがベッタリと身を寄せている。しかし当のヘカトンケイルには、その感覚は全くないようだ。
キツネは気を取り直して、ケイイチロウの方へ向き直った。
「展望台に、女性が取り残されている。ネイビーのスーツを着た……とても美しい、赤毛の方だ。お前、私の代わりに行ってくれ」
キツネはケイイチロウに向けて再び構えを取る。彼が刀を手にしたことは想定外で、それは僅かにキツネの心を動揺させていた。
ヘカトンケイルは、遥か頭上の展望台を見上げる。ケイイチロウがガラスに開けた穴からは、薄く細い黒煙が立ち上り続けていた。
「……分かりました! 直ぐに戻ります!」
ヘカトンケイルが決意した様子で、駆けていく。
遠くなっていく足音を聞いて、キツネは面の奥で苦笑した。自分が他のハンターにこんなセリフを言う日がくるとは、彼女自身、全く考えたこともなかったのだ。
(……好き。好き。大好きよ……)
「お前……先程から、一体なにを言っている?」
頭に響く声に顔をしかめて、キツネはアンズを呼び戻す。
アンズの体は直ぐにキツネの隣に現れたが、彼女の目は走り去っていくヘカトンケイルだけを見ている。
「行かせるものか!」
ケイイチロウは、ヘカトンケイルに向けて炎の矢を放つ。その動作は、彼が構えを取るのとほぼ同時に完了している。
迫る矢を見て、ヘカトンケイルは被弾を覚悟した。
(大丈夫だよ!)
キツネだけが、その声を聞いた。
ヘカトンケイルに迫った矢が全て、水の塊に飲み込まれ消えていく。
キツネはケイイチロウに目を向けたまま、刀を構え直した。彼女の目に映る兄は、理解出来ぬものへの恐怖を感じ始めている。
「ありがとうございます!」
ヘカトンケイルは口早にキツネにそう言うと、再び駆け出し、タワーの中へ。
その後姿を見つめながら、アンズは肩に乗せた傘をクルクルと回している。彼女はヘカトンケイルの真正面に居たのだが、彼の目はその向こうを見ていたのだった。
(好きで好きで、仕方がなくて。大好きで……。ああ、そっか。これが、そうなのね)
もはや自分は、相手の目に映ることすらない――それを知っても、アンズの中には変わらずに強い感情が溢れ続けている。
呼び寄せられて、アンズの体は瞬時にキツネの隣へと移動した。
(ねぇ。さっさと片付けて、直ぐにタワーに登りましょ)
キツネの周りを冷気が覆い、アンズの傍には水で出来た魚や海獣達が姿を現す。
(あのガキが、お気に入りか)
(そうよ。愛してるの。生きてたら、結婚したかったわ。本当、嫌な女!)
頬をぷくっと膨らませて、アンズはキツネからプイッと顔を背けている。
キツネは笑った。最早笑うしかないと、半分は開き直ってのことだ。
(あいしている……)
キツネの目が無意識に、上空の展望台へ向く。心の中でアンズの言葉を復唱したそれは、今の自分にはとてもむず痒く、分不相応なものに思えていた。




