4-8 (痛いくらい)愛してる ⑧
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「良いのかい? お前――」
炎の翼を広げて、ケイイチロウは落下のスピードに抗っている。彼は浮上を試みていたが、しかし思う様に体が動かせず、ジワジワと速度を上げながら地面に向かっていた。
ケイイチロウの襟首はキツネの左手にガッシリと掴まれていて、その首筋には刃が立てられている。気を抜けば首を落とされるという状況から、彼は翼をコントロール出来ていない。
ケイイチロウは、キツネの気迫に押されていた。だが刃は薄皮一枚を斬ったところで、ケイイチロウの周囲を包む熱で押し返されている。
(死ぬぞ)
地上の光が近づくのを見て、ケイイチロウはそれを美しいと感じていた。自分の体が、光に向かってダイブしているように思えたからだ。
「――兄さん」
キツネ面の向こうから、掠れた声。
ケイイチロウは、息を呑む。
キツネは刀をケイイチロウの首から離し、落下のスピードに抗いながら、面を軽く持ち上げた。
辛うじて見えた口元。
唇が、僅かに震えている。
「さようならです」
短くそう言うと、キツネは勢いをつけてケイイチロウの喉元目掛けて刀を突き刺した。
「お前……っ! サ……」
寸での所で刀を避けると、ケイイチロウはキツネの腕を掴んで、彼女の体を第二東京タワーの鉄骨目掛けて放り投げた。
キツネは背中から鉄骨に衝突して、そのまま頭から落ちていく。
ケイイチロウは炎の翼を大きく広げて羽ばたくと、その場に留まり、落ちていくキツネの後を目で追った。彼のその行動は、妹の身を案じてのことではない。ケイイチロウの中には今、強い怒りが渦巻いている。
「お前、お前は、灰すら残さない。安心して逝け……っ!」
落ちた所で追撃を加えるつもりで、ケイイチロウは掌に炎を圧縮させ始めた。
(兄さん、か……)
キツネは遠くなっていく兄の姿を見ながら、そこにかつての彼の姿を重ねていた。先刻、無意識に口にした言葉には、捨てきれない情が込められている。
受け身を取ろうとして、それからキツネは体が痺れていることに気付いた。背中を強打したためだろう。
段々と地面が迫っていることを悟って、キツネは目を閉じた。思い浮かべたのは、アオイのこと。滝や他の使用人たちのこと。そして、一匹の猫とその同居人のことだ。
直後。
ずた袋をコンクリートに打ち付けるような、どしりとした音。
辺りには粉塵が舞い、あちらこちらから悲鳴が上がっている。その場所は、タワーから避難を進めていた人々の列の直ぐ傍だったのだ。
ケイイチロウは目を凝らしてキツネの位置を確認しようと試みていたが、やがて違和感を覚える。
「――甘いな。私も、お前も……」
目を開きながら、キツネは自嘲気味に笑う。彼女の体は今、インドラの腕の中にあった。
インドラは膝を深く落として、両腕で抱えるようにしてキツネを抱いている。彼の左足はコンクリートに沈み込んでいて、彼らの周囲には蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。
「君は、無茶をし過ぎだ」
溜息混じりに、インドラが呟く。
その仕草に別の人物をダブらせて、キツネはそれを不思議と温かく感じた。
「インドラ!」
迫りくるケイイチロウの声。
「大丈夫だ」
キツネの体を抱えたまま、インドラは彼女に動かないように言い聞かせた。
ケイイチロウは、インドラを見て我を失っていた。彼の体は今、インドラに焼かれた電紋が、まるで怒りに呼応するようにビリビリとした痛みを走らせている。
「二人まとめて……っ!」
ケイイチロウが二人に向けて腕を振り上げたそのタイミングで、彼は異変に気付く。周囲を靄のように覆っていた粉塵が突然晴れ、地上の光の粒が視界一杯に広がったのだ。
そしてケイイチロウの手は、意識するよりも早く動いた。真っすぐに顔面目掛けて飛んできた塊を、ケイイチロウは無意識に炎を纏った腕で弾く。それは地上から投擲されたもので、その先にはヘカトンケイルの姿があった。
ヘカトンケイルは投擲を終えた直後の槍投げの選手のようなフォームで制止していて、周囲には何処からから引き抜いてきたと思われる街灯が二本、突き刺さっていた。彼は最後に対峙した時と同じ姿で、スーツの左腕部分は炎による損傷で殆ど露出している。
キツネはインドラの腕を離れて、彼らから少し離れた所へ着地した。キツネの目は、ヘカトンケイルのスーツに向けられている。修理が間に合っていない状態で駆け付けたことを、彼女は驚いているのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
目を合わせるなりヘカトンケイルが発した言葉で、キツネは呆気にとられた。それは、彼女のセリフでもあったからだ。
「……奇襲するなら、手を止めず追撃しろ! 同じ手は使えないと思え。馬鹿者が」
「あ! そっか。はい!」
自分の言葉を素直にアドバイスとして受け取るヘカトンケイルの姿に、キツネはすっかり毒気を抜かれた。
ヘカトンケイルは地面に突き刺さっている街灯に目をやって、後始末をどうしようかと悩んでいる。
(無茶苦茶だ……)
二人の会話に呆れ果てて、インドラは溜息を吐いた。二人の会話は、いつもどこかズレている。公共物は気軽に引っこ抜いてきたり、投げたりするものではないのだが。
そんな彼らに向けて、ケイイチロウは掌をかざす。すると砕けたコンクリートの周囲から火柱が立って、辺りからは再び悲鳴が上がった。
「ああ! ああ……そうかい。やはりね! やはり、あいつか。タヌキめ! 僕を嵌めようという訳さ。この、僕を……僕を……!」
ブツブツと口の中で呟きながら、ケイイチロウは両手を頬に当てて身をくねらせている。その姿は有名な絵画に似て、まるで見る者の不安と恐怖とを掻き立てるようだ。
ケイイチロウに視線を向けたまま、インドラはキツネの名を呼ぶ。
「ここでは狭すぎる。彼らに危害が及ぶ前に、奴を誘導したい」
インドラが指しているのは、今だ避難の完了していない人々のことだ。タワーの外に居た者たちは、徐々にタワーから距離を置いて避難が完了しつつある。しかしタワーの内部には、まだ多くの気配が感じられるのだ。
キツネもそれを理解していたが、しかし彼女には余裕がなかった。体の感覚は戻りつつあるというのに、左腕だけが痺れたままなのだ。今は、刀を握るのがやっとである。
キツネが、「おい」とインドラを呼ぶ。
「お前、手を出してくれるな。アレは、私が狩る」
キツネの言葉を耳にして、インドラは呆れを隠せない。彼女の言うそれは、つい今しがた助けられた者の言葉とは思えないからだ。
そんなインドラの心情などまるで無視して、キツネは空に目を向けた。そこには、彼女の兄がいる。
「キツネ。被害が出ては……」
「そんなものは、お前がなんとかしろ!」
キツネは、懐に忍ばせていた紐で左手を柄に縛り付ける。
トンと地面を蹴って宙に舞うと、ヘカトンケイルがキツネの直ぐ傍へ降り立った。
「援護します!」
キツネに背を向けるような形で体を横に向け、ヘカトンケイルは構えをとる。
キツネは逡巡したが、それはさほど長くはかからなかった。目的を果たすことが重要なのであって、その手段を選んでいる暇はないと考え直したからだ。
インドラは二人を窘めようとしたが、彼の言葉を待たずにキツネはケイイチロウへと向かって飛び出していく。
油断するなよと、キツネはヘカトンケイルへ向けて叫ぶ。その先に繋がる不吉な言葉を、彼女は辛うじて飲み込んだ。




