4-8 (痛いくらい)愛してる ⑦
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十九時五十分。
第二東京タワーの中は、いつものように観光客で賑わっていた。特務課からは犯行予告の直後に営業自粛の要請を行ったが、管理者からは関係者で協議すると返答があったきりだ。
タワーの内部にはチラホラと警官の姿も見えたが、彼らの多くは犯行予告とは別の仕事の為に出動していた。万引き、置き引き、器物破損、駐車違反――それらは全て、向島が行った虚偽の通報によるものである。
アオイは警官や警備員の姿を見て向島の意図に気づき、それに感謝していた。可能な限り市民への被害を食い止めたいという思いは、彼女も同じだからだ。
混み合う人の流れの中を、アオイは展望台行のエレベーターに向かって歩いていた。無線からは、佐渡の声が引っ切り無しに届いている。それによれば、第二東京タワー付近の路上でアナザーによるものと思われる事件が発生したという。
佐渡のいうそれが件のアナザーと同一であるかは不明だが、例え全く別のものだったとしても、これで特務課は大義名分を得たことになる。アオイはそれを好都合だと考えたが、不安が無いわけではなかった。
アオイは無線の電源を落としていなかったが、誰からの呼びかけにも応えていない。彼女は最初から、現場の指示は佐渡に任せるつもりでいたのだ。
アオイは、四五〇階の第二展望フロアを目指していた。四五〇階までは、直通のルートが存在しない。そこに向かうためには、先ず四階から三五〇階の第一展望フロアまで登り、三五〇階から四四五階までのエレベーターを経由して、残りは徒歩で上がる必要がある。
アオイはエスカレーターを乗り継いで四階まで上がると、胸から取り出した手帳をさり気なく係に提示して人払いさせた。彼女はアナザーが出現したことを伝え、上層階への立ち入りを制限するようにと言葉を残して、一人でエレベーターに乗り込む。
扉が閉まる間際、係の女性が見せた不安そうな表情に、アオイは笑顔を見せた。
閉まるドア。
窓ガラスの向こうは、光の海。
ガラスには、作り笑顔の女が映り込んでいる。
六十秒と経たず、エレベーターは目的の三五〇階に到達した。それはあまりに一瞬で、アオイは心の整理が追いついていない自分を情けなく感じている。
三五〇階には、まだ観光客が残っていた。彼らにはまだ階下からの避難要請は届いていない様子で、フロア内には穏やかな雰囲気が流れている。
(これ以上、犠牲は出せない)
アオイが彼らに向かって避難を呼びかけようとしたその時、遠くの窓の外をなにか横切るのが見えた。
「ねえ。アレ、なんだろう――?」
遠くで、カップルが窓の外を指している。
次の瞬間、辺りは強い光に包まれた。
アオイが瞬きする間に窓ガラスの一角には巨大な穴が開いていて、辺りには洪水のように炎が押し寄せている。
音は、全て遅れて聞こえてきた。
アオイは一目見て、このフロアにはもう彼女の他に誰も居ないのだと理解する。見渡す限り炎の海で、動いているものは見当たらない。
迫ってくる炎から距離を取ろうと、アオイはエレベーターに背を向けたまま二、三歩後退した。彼女はそのまま後ろ手で壁を探るが、昇降ボタンには中々触れることができない。
「――おやおや。おかしいねぇ?」
スプリンクラーの作動する音に混ざって、鈴の音のような声。アオイがそれに反応した時、彼女の眼前には既に真白の顔が迫っていた。
「やけに大きな反応があってねぇ。てっきり、アナザーかと」
間近で声を耳にして、アオイはその艶やかな声の主が男であることに気付く。
その男――南城ケイイチロウは、目元を光沢のある布で覆って、口元にはくすみのある紅いルージュをのせ、女性ものの着物に身を包んでいた。肩を大きく開けさせたその姿は遠目には女性のようにも見え、圧倒される程のなまめかしさを放っている。
辺りには、スプリンクラーから消化液が降り注いでいた。それはまるでアオイとケイイチロウとを避けているようだったが、実際には彼の発する強い熱で霧散し、そう見えているだけだ。
「連続放火犯は、貴方ね?」
アオイが口を開くと、途端に喉が焼けるような熱が押し寄せてきた。
ケイイチロウは長い指を立てて、軽く首を傾け、まるで渋るような仕草で頬をトントンと叩いている。
今にも炎に包まれそうなその最中にあっても、アオイは眼前の男を美しいと思った。その妖艶な雰囲気に、飲まれそうなほど。
「おかしいねぇ」
ずいと、ケイイチロウがアオイに顔を寄せる。
鼻と鼻とが触れそうなほどの距離で、アオイは男のぼやけた顔に釘付けになった。
「お前さん……何故、生きていられるんだい?」
口にしてすぐ、ケイイチロウは口の端を持ち上げてニイっと笑った。彼は自身の問いに、一つの答えを見つけたのだ。
逃げなければと本能的に察して、アオイの足が半歩後退する。しかしそこにはエレベーターのドアがあり、彼女はそれ以上下がることが出来ない。
アオイはケイイチロウと目を合わせたまま、近づいてくるエレベーターの微かな駆動音を耳にした。
「ああ、いい顔だ。安心していいよ。何も怖くはないさ」
ケイイチロウが腕を振り上げ、アオイはきつく目を閉じた。
耳元で響く、冷たい音――。
後方から吹き込む風を感じて、アオイは恐る恐る目を開く。
「――なんだい。早いじゃないか」
ケイイチロウの手が、彼の首元を突こうとする刃を止めている。
刃は、アオイの背後から彼女の髪の間を通り、右耳のすぐ脇を抜けて、ケイイチロウへと真っすぐに向かっていた。
ケイイチロウの手から流れ出た血が刃を伝って、床にぽたりぽたりと零れている。
「あなた……!」
その名をアオイが口にする前に、その人物は彼女の前に躍り出た。
「キツネ! やあ、やあ。ついにお目見えだね」
刀を手で払って、ケイイチロウは後ろへ跳ぶ。
キツネはアオイの前に立ち、刀についた血を払ってそれを床に突き立てた。彼女が足を踏み込み、両手を強く打ち付けると、辺りの炎は消し飛んで、やがて後には幾ばくかの氷柱が姿を現す。
炎と熱とに解放されて、アオイはようやく深く息を吐き出した。自分が息を止めていたことにすら、彼女は気付いていなかったのだ。
キツネはいつもの白装束姿で、たすき掛けした袖口からは鍛えられた腕がのぞいている。彼女は無言でアオイの方へ手を向けると、下がるようにと促した。
「水に、氷に……ああ、なんだい。器用だねえ、お前さん」
ケラケラとケイイチロウが笑うと、彼の体を炎が包み、辺りの氷は溶けていく。
キツネは再び刀を手にし、構えをとっている。
フロアの中は、炎と冷気とが激しくぶつかり合っていた。床から天井へと向かって伸びていた氷柱の先が、熱を浴びて溶け始めている。
アオイは立っているのがやっとの状態だったが、二人から目を離せず、瞬きすることも忘れていた。
キンッと僅かな音がして、折れた氷柱の先が床へと落ちていく。それを合図にして、キツネはケイイチロウへと距離を詰めた。
「おお、怖い」
僅か一瞬の内に行われたそれに反応して、ケイイチロウは炎を繰り出す。
床を舐めるように動く炎を斬撃でかき消すと、キツネはケイイチロウと組み合ったまま窓に向かって勢いよく跳んだ。そこには、彼がこのフロアに現れた時に開けた大穴があった。
「キツネ!」
届かないと分かっていても、アオイは彼らに向かって手を伸ばす。しかし二人は直ぐに彼女の視界から消え、やがて音すら届かなくなる。
二人が消えた後、辺りには半ば凍り付いた幾つかの黒塊が姿を現した。幾重にも折り重なるようにして、フロアの彼方此方に残された塊。
その正体に気付くと、アオイの脚はついに床へと崩れ落ちた。それらは彼女の作戦によって生じた、被害者たちの姿だったからだ。
分かっていたはずだと、アオイは自分に言い聞かせる。こうなることが分かっていて、それでも自分はこの道を選んだのだ、と。
それでもやりきれない思いから、アオイは傍にあった塊を手に取って、今にも崩れそうなそれを胸に抱いた。その姿はまるで、母親が赤ん坊を胸に抱くようだった。
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次回は、1月22日21時を予定しています。




