1-6 ワールド・オーダー ①
六、ワールド・オーダー
脱衣所の鏡に映る自分を見て、アオイは軽く眩暈を覚えた。一仕事終えた自分の顔には、シャワーでは落としきれない苦労と苦悩とが染みついてしまったようで嫌だ。鏡の中からは黄金色の瞳が、そんな自分を軽蔑するような視線を投げている。
本当の、自分の瞳の色。アオイは、それが嫌いだ。
ぽたぽた垂れている水滴を煩わしく思いながら、アオイは用意しておいたタオルを頭に巻きつけて下着を身に着ける。そうしてカラーコンタクトで瞳の色を変えていつもの自分に戻ると、彼女はドライヤーに手を伸ばした。
髪が少し、傷んでいる。カラーリングを繰り返しているのだから仕方のないことと分かっているが、手櫛で髪をすく度に指が捉える違和感は、アオイにとって好ましいものではなかった。
いっそのこと、短く切ってしまおうかと考えたこともあった。だが、頻繁にサロンに通う時間が確保できないことを考えると、適度に長さがあった方が結ぶことが出来て楽だ。
鏡に映る、自分の体。そこに傷と呼べるものが既に一つもないことが、アオイの気を更に滅入らせている。
東條アオイは、弟とは違う特異体質の持ち主だった。昔から、どんな怪我でも直ぐに完治する。それはアオイに他人との隔たりを感じさせ、彼女は弟にすら自分の体質を打ち明けていない。
軽く化粧し、肌の上に絆創膏と包帯を重ねて人間らしさを装うと、アオイはスーツに身を固めてリビングへと向かった。昨日の事件の後片付けが難航しているために、この後も職場に戻らなくてはならない。
リビングのドアの向こうには、甘い香りが立ち込めていた。
「あ! ねえねえ、見て見て!」
アオイの姿を見るなり、リリカが走り寄ってくる。
「あのね、ヒカルったら凄いの! ぷくって膨らんでね。クリームも二種類あるの」
リリカの笑顔とリビングのテーブルに並べられたシュークリームを見て、アオイも思わず口元を綻ばせた。いつの間にやら料理上手になった弟には、お菓子作りの才能もあるようだ。
照れて無口になっているヒカルの姿と、顔を真っ赤にして喜ぶリリカの姿を見ると、アオイは自分が幸せの中に身を置いていることを強く思うことができた。自分の仕事は、子供たちの笑顔を守っているのだ。
「ねー。本当に、料理上手ですよねえ」
キッチンからカップとサーバーを乗せたトレイを手に、淡路が姿を現した。
アオイは、淡路が来ていることは予想できていたので、驚きも咎めもしない。むしろ彼女には、淡路が家に馴染むのが早過ぎることの方が気に掛かっていた。リリカはともかく、ヒカルですら態度が幾らか軟化している。
淡路はヒカルの嫌悪感を煽らないギリギリのラインを探りつつ、リリカを味方につけて、自分のベストな立ち位置を確保しようとしているようだ。
「淡路さんて、紅茶淹れるの上手ですよね。こないだの珈琲も美味しかったし」
惚れ惚れした表情のリリカに、淡路は偶々上手く出来ただけだと謙遜している。
アオイはその様子に、冷たい視線を送っていた。彼女は、たとえ淡路が心の中では悪態をついていたとしても驚かない。淡路の本音は、いつも見えないところにある。
アオイが風を求めてテラスへ出ると、少し遅れて淡路がそれを追いかけた。
「なに?」
煩わしく思う気持ちが、声に乗る。
「大丈夫ですか」
何のことかと目で問いかけて、アオイは淡路の目が自分の頬を覆うガーゼに向けられていることに気付いた。
「大丈夫。元々、大したことないし。直ぐに治るでしょ。これくらい」
そうですかと、淡路が短く返す。
その言葉と表情に含みがあるように思えて、アオイは急に居心地が悪くなった。全て、見透かされているようだ。
「あんたは?」
「僕、ですか?」
「……庇ったでしょ。怪我、平気なの?」
淡路は尋ねられて初めて気付いたような表情をして、大丈夫だと笑って答えた。
アオイは淡路のその表情を目にして、さらに居心地が悪くなった。淡路の表情にも言葉にも偽りがないことは直ぐに分かったが、彼が背中に痛みを感じている事実にも気付いていたからだ。
そうしているうちに、アオイは淡路に庇われた礼を伝えるタイミングを失ってしまった。
「そういえば、例のハンターの件。各所の報告書も確認していますが、やはり時間がかかりそうですね」
「まさか、新たに二人も現れるなんてね」
「現場付近のカメラは、今のところ全滅みたいです。ご丁寧に、全て切断されていたとか」
淡路の言葉から、アオイは公園で出会ったキツネ面の少年を思い出した。あの少年が、カメラを破壊したのかもしれない。
あれだけ目立つ風貌をしていながら、有益な目撃情報は皆無。公園の外にある店舗や施設の防犯カメラにも映像が残っていないことを考えると、彼らは公園の中から現れ、公園の中で姿を消したと考えるのが妥当だろう。彼らは関係者や野次馬に混ざって、現場を立ち去ったに違いなかった。
「対象の呼称が決定したみたいですが、もうご覧になりました?」
「まだ見てない」
「ええと、シルバーのスーツの少年が、ヘカトンケイル。黒いスーツの男性が、インドラ。で、キツネ面の少年が……キツネ、です。まんまですね、キツネ」
「あのねえ……。もっと他に、やることがあるでしょうに」
呆れる余り、アオイは気が遠くなるのを覚えた。自分達が現場を駆け回っている間、本部ではこんなことに時間が費やされていたのだ。
不意にリビングから呼ばれて、アオイは身をよじって声の方へ顔を向けた。
皿に盛り付けたシュークリームを手に、ヒカルが早く来るようにと急かしている。その隣では、リリカがシュークリームの写真を撮っていた。
背中越しに名前を呼ばれて肩を叩かれ、振り向きざま、アオイは頬に違和感を覚える。見ると淡路の人差し指が、自分の頬をさしている。子供のような悪戯だ。
「まだ、痛みます?」
淡路は、笑顔を崩していない。
アオイは気を抜いていた自分にも、淡路にも苛立ちを覚えた。アオイには、淡路が本当のことに気付いていて、それを敢えて彼女から言わせようとしているように思えるのだ。
淡路の本音は、いつもアオイの見えないところにあった。決して腹の底を見せようとしない態度は好ましくなかったが、彼女は、彼からの好意には嘘偽りがないことも察していた。
淡路はアオイに、嘘を吐かない。だが、本当のことを話そうともしない。
淡路は暗がりから自分の姿を見せようとせずに、その愛情だけを一方的にアオイに押し付けようとしている。なによりアオイが腹立たしいのは、淡路がそれを善い行いであるかのように振舞うことだった。
嫌悪を示すために、アオイは淡路の手を叩き落とす。
ほぼ同時に、アオイの手には、淡路が自分から軽く手を引いたような感覚があった。
本当は避けることが出来たにも関わらず、敢えてそうしないことで、淡路は怒りを受け止めたつもりなのかもしれない。彼の愛は、独りよがりだ。
淡路は、自分の罪を知っているのではないだろうか――。ふと浮かんだ問いを打ち消して、アオイは淡路に背を向けた。
アオイにとって大切なものは、ヒカルやリリカのいる今の生活だけだ。それを守るためならば、アオイは淡路と対決することも厭わないと考えていた。




