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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
Another

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252/408

4-7 eyes ③

 *



 九時十五分。


 コタツ机の上でノートパソコンを広げて、北上はメールの確認をしていた。ついに彼のクラスもインフルエンザの為に学級閉鎖となり、今朝はホームルームを行っていない。生徒たちには、課題や自宅での過ごし方について簡単にメールで連絡を行っている。


 北上が顧問を勤める空手部も、今は稽古が出来ていない状態だ。三月には大会を控えているが、部員の三分の一程が罹患しているということもあり、再開までは時間がかかることが予想される。


 北上の十年程の教員生活の中で、彼がこれほどのインフルエンザの大流行を目にするのは初めてのことだった。このままでは、三月の第一週目に予定している卒業式、第二週目に予定されている学年末試験にも影響が及ぶかもしれない。


 正面の背の低い本棚の上に置かれたテレビは、昨夜から同じようなニュースばかりを流している。公安という組織の不祥事と、インフルエンザの大流行についてだ。


「ミカン。少し、左に」


 北上は、飼い猫に声を掛ける。


 画面の前で寝そべって、ミカンは尻尾をパタパタと振っていた。耳はピンと立っていて、明らかに起きているのだが、彼女は目を閉じて寝たふりをしている。今朝、湯呑を倒して叱られたことを、根に持っているのかもしれない。


 仕方なく北上は立ち上がって、自分から画面の方へ近寄った。


 構ってもらえると思ったミカンが、少しフライング気味に目を開いて顔を上げる。


 北上はミカンを本棚から降ろして、テレビの画面に目を向けた。彼は、ミカンが怖い顔をしていることには気付かない。


 ニュースでは、公安の上層部の人間と指定暴力団桜陀会との間に金銭の授受があった疑いを報じている。昨夜遅くに飛び込んできたそのニュースは、公安の一課長の自宅にフリーのジャーナリストが単身で乗り込むというショッキングな出来事からスタートしていた。


 現在、件の一課長の自宅前にはマスコミが大勢詰めかけ、中継が繋がっている状態だ。マスコミは中から獲物が出てくるのを、今か今かと待ち構えている。


 フリーのジャーナリストはネットで専用の捜査チャンネルを立ち上げており、そこで独自に得たという情報を定期的に発信していた。彼の行動は幾千幾万もの注目を集め、顔を隠すために身に着けているパーカーは、何処の店舗でも売り切れが続出している。


 流されやすく、煽られやすく、どこまでも愚か――。自分も同じ人間だと、北上は己を戒める。


「お邪魔します」


 ガラガラと玄関扉が開く音がして、直ぐに南城が台所の玉砂利の暖簾を潜って顔を見せた。


 北上はテレビの傍に立ったまま、居間と台所の間の戸を開けて、彼女に「おかえり」と声を掛ける。


 南城は朝早くから自宅に押し掛けたことを申し訳なく思っていたが、北上から先に声を掛けられたことで気を楽にしていた。


「ただいま。お前のクラスも、学級閉鎖だろ? うちもだよ」


 参ったなと言いながら、南城は居間に荷物を置いて手を洗いに洗面所へ向かっていく。


 北上はその背中を見送って、胸を撫で下ろしていた。


 昨夜、北上は炎の翼を持つアナザー――それは南城の兄だ――と交戦したのだが、途中で逃がしている。深夜だったこともあり、直ぐに南城に連絡をすることも憚られ、北上は彼女の身を心配していたのだ。


 しばらくして、南城は不思議そうな顔で洗面所から戻ってきた。


「北上。お前、髪を切ったのか? なんだか、洗面台にパラパラと……」


 南城の言葉に、北上は頷いて応える。


 昨夜、炎で焦がされた髪先を、北上は適当にハサミでカットしていた。洗面台の掃除を忘れていたわけではないが、ミカンがハサミで遊ぼうとするのに気を取られ、つい後回しになっていたのだ。


 北上が慌てて洗面所へ行くと、そこは既に南城が掃除した後だった。


「南城。洗面所の。すまない」


「構わん。それより、ミカンはどうした?」


 南城は居間の中を見回して、ミカンを探している。


 北上はテレビの傍にいたはずだと答えたが、ミカンの姿は見当たらない。


 南城が腰を屈めて炬燵布団を捲ると、その奥ではムスッとした表情のミカンが横になって尻尾をバシバシと床に叩き付けていた。


 北上がミカンの名前を呼ぶが、彼女はプイッと顔を背けてしまう。


「お前、なにしたんだ? どうした~? ミカン、おいで~」


 南城が優しくミカンの名前を呼ぶと、彼女は少しだけ反応してみせる。しかし、やはり傍にはやってこない。南城のすぐ隣には、北上がいるからだ。


 北上は、ミカンが湯呑を倒したこと、それを叱ったことを南城に伝えた。彼には、ミカンが機嫌を損ねる理由が他に思い当たらない。


「よく分からんが……ほーら、ミカン。オヤツを持ってきたぞ。今日はお前の日だもんな」


 南城はカバンから筒状にパッケージされたネコ用のオヤツ「ちゅーちゅるん」の詰め合わせを取り出すと、それをミカンの方へ差し出す。


 ミカンは過去に数回貰ったことのあるそれを覚えていて、弾かれるようにぴょんと起き上がると南城の方へ駆け寄った。


「北上。今日はネコの日らしいぞ? にゃんにゃんにゃん、だ」


「にゃんにゃんにゃん」


「そう。にゃんにゃんにゃん」


 大の大人が二人揃って幼児のような言葉遣いをしているのが可笑しくなって、南城は笑った。


 北上は南城が笑った理由が分からなかったが、彼女が楽しそうだったので嬉しくなって一緒に笑う。それはほんの僅かな表情の変化だったが、南城には伝わっていた。


「南城。いつもすまない。これは、後であげよう」


 北上は南城に頭を下げると、彼女の手から「ちゅーちゅるん」の詰め合わせを受け取って立ち上がる。オヤツを、ミカンの手の届かない高いところへ上げておこうというのだ。


 しかしそれを見て、ミカンは北上の左脚に飛びついた。構ってくれないばかりか、オヤツまで取り上げる奴――ミカンの中で、今の北上はそういった扱いである。


 北上が制止するのも無視して、ミカンはバリバリと豪快に爪を立てながら北上の脚を登っていく。


 北上は優しく引きはがそうとしたが、ミカンは全力で爪を立てている。力を入れすぎるとミカンの爪が折れてしまいそうで、北上はどうすることも出来ない。


 南城と目を合わせて、北上は彼女に無言で助けを求める。


「全く、なにしてるんだか……」


 南城は、呆れたように笑っていた。



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