4-7 eyes ②
*
二〇×二年 二月 二十二日 火曜日
カチャカチャと、食洗器のたてる僅かな音で、ヒカルは目を覚ます。リビングのソファから見える時計の針は、七時になるところだ。上半身を起すと、ヒカルの目はキッチンに立つアオイの姿を捉えた。
「あら、起きたの。……またやった?」
アオイはヒカルがリリカと喧嘩したことに気付いていて、彼を揶揄うように笑っている。
ヒカルはいつの間にか体に掛けられていた毛布を畳んでソファに置くと、アオイの元へ急いだ。
「アオ姉。いつ帰ったの?」
「日が変わる前かな。ソファで丸まってたから、毛布だけ掛けたんだけど。寒くなかった?」
「うん。ありがとう。それ、朝ごはん? 僕やるよ」
ヒカルは壁に掛けられたエプロンを手に取って、首から被る。
アオイはヒカルに休んでいていいと言ったが、彼は首を横に振った。なにかしていないと、落ち着かないのだ。
ヒカルはフライパンの前に立つアオイの隣で、冷蔵庫から出したレタスを千切ってサラダを作り始める。
「で、今度はなあに?」
アオイはフライパンに蓋をして、キッチンタイマーをセットした。
ヒカルはレタスの残りを冷蔵庫にしまって、今度はトマトを切り始める。
「うん……誕生日の話。ちょっと、余計なこと言った。……言葉が足りなかったって言うかさ」
「そう。難しいものね、伝えるのって」
ヒカルは、視線をアオイに向けた。彼はアオイの言葉に影のようなものを感じたのだが、彼女の横顔は微笑んでいた。
「もう少ししたら、リリちゃんに声かけてあげてくれる? 皆で朝ごはん食べましょ。玉子、焼けたから」
鳴る直前でタイマーを止めて、アオイはフライパンの蓋を開けて火を止める。
「うん。そういえば、淡路さんも帰ってるよね?」
アオイは、そうだと答える。
ヒカルは、普段はアオイよりも淡路の方が早起きなのにと、不思議そうな顔をした。
アオイはそんなヒカルの様子に気付いて、昨夜は仕事が忙しかったのだと言う。
この時、ヒカルの目には、食器棚へ視線を動かすアオイの仕草が何処となく不自然に映った。
「おはようございます。あれ、早いですね。アオイさん」
着替えを済ませた淡路が、キッチンに姿を見せた。彼は首元を開けていて、ネクタイとジャケットを腕に掛けている。淡路はワイシャツの手首のボタンを外して袖を捲りながら、アオイとヒカルに交代すると声を掛けた。
ヒカルとアオイは、大丈夫だと答える。それがほぼ同時だったので、二人は顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、それ運んでおくよ。ヒカル君、リリカちゃんに声かけてきたら?」
ヒカルは淡路の口調で、彼も二人の喧嘩に気付いていると知る。
ヒカルが諦めた様子で溜息を漏らすと、アオイと淡路が微笑ましそうに笑った。
淡路に後を託すと、ヒカルはリビングを出て自室の前へ。部屋の前には、いつの間にかリリカが貼り紙をしていた。そこには荒れた字で、「立ち入り禁止!」とある。
声を掛けてから、ヒカルはドアを少し開けて、隙間から部屋の中を覗いた。リリカはヒカルのベッドに横になって、頭から布団を被っている。
何時まで経っても返事がないので、ヒカルはまた怒らせるのを覚悟で部屋に足を踏み入れた。
「リリカ。朝ごはん食べようよ」
毛布から飛び出した髪の毛の根本を目で辿って、ヒカルはリリカの頭にトントンと指先で軽く触れる。
リリカはモゾモゾと動いて、それからクルッと寝返りを打った。彼女はまだ相当眠いのか、ムーと声にならない声を上げて抵抗している。
ヒカルはその様子を見て、リリカは寝起きがよい方なのにと不思議に思った。昨夜は、夜更かしをしたのだろうか。
「リリカ。僕が、悪かったよ。ご飯食べよう。今日は、アオ姉と淡路さんも一緒に……」
その言葉の途中で、リリカが不意にガバリと起き上がった。彼女はヒカルに気付くと、毛布で顔を隠してしまう。
「あ……っと、僕、あっち向いてた方がいいやつ?」
寝起きに顔を見るなと怒られたことはないのだが、ヒカルなりに考えたことを尋ねてみた。
リリカは徐々に毛布を下げて、口元を隠したままヒカルと目を合わせる。彼女の目は、なにか言いたげだ。
「あの、さ。……まだ、怒ってる?」
ヒカルが恐る恐る尋ねると、リリカが彼の袖をぎゅっと摘まんだ。
「昨日、直ぐ寝た?」
「え? ああ、うん。リビングで寝ちゃってたっぽい」
「……なんか、見た?」
リリカの指が、ヒカルの袖を引っ張っている。
ヒカルが首を傾げると、リリカはあちらを見たり、こちらを見たりと視線を忙しく動かして、なにか思い出している様子を見せた。
「だから、だから昨日……っ! ……やっぱ、もういい!」
ぎゅっと口を噤んで、リリカは顔を赤くしている。
「とにかく! もう怒ってないから。顔洗ったら行くね」
「ありがとう。……リリカ、どうした? なんか、顔」
「もう! いいから!」
先に行ってと言いながら、リリカは無理矢理ヒカルを部屋から追い出す。
自分の部屋から追いやられて、ヒカルは背中越しにドアがピシャリと閉められるのを悲しく思った。怒っていないと言うが、リリカの様子はおかしい。
ヒカルが仕方なくリビングに戻ろうとすると、今度は背後のドアが勢いよく開いて彼はシャツを掴まれた。リリカだ。
ヒカルはそのまま洗面所に連れ込まれて、準備が済むまで傍に居るようにとリリカから強い口調で迫られる。
「リリカさぁ、本当に怒ってない?」
明らかに様子がおかしいリリカを、ヒカルは不思議に思う。
リリカは顔を洗顔フォームの泡で真っ白にしながら、ブンブンと顔を上下に振って頷いている。
(絶対おかしいよな……)
バシャバシャと顔を洗うリリカの背中を眺めながら、ヒカルは溜息を漏らした。
するとその溜息に、リリカが反応する。
「やっぱり……見たよね?」
タオルを顔に当てて、リリカは顔を隠している。
なにをと、ヒカルは尋ねた。
リリカはタオルを顔に当てたままヒカルの傍へ寄ってきて、彼に頭を下げるようにと合図する。
ヒカルが言われるまま頭を下げると、リリカは周囲に気を配ってから、ヒカルの耳元で囁くように言った。
「昨日、キスしてたでしょ……?」
言ってすぐ、リリカはタオルで口元を抑える。彼女の顔は、昨夜目撃した光景を思い出して真っ赤になっていた。
深夜。僅かに開いた、洗面所の扉の向こう――。一瞬だけ行われたそれを、リリカは目撃してしまったのだ。
ヒカルはリリカの言葉を耳にした後、しばらくその意味が分からずにいた。リリカの言うそれは、誰と誰がという部分が省略されていたからだ。しかしそれは、分かり切ったことだった。
ヒカルは脱力して、膝から洗面所の床に崩れ落ちる。
「ええっ? ちょっと! ヒカル!」
まさか知らなかったのかと、リリカは焦りながらヒカルの肩を揺さぶった。
ヒカルは体を激しく揺さぶられながら、ショックのあまり放心している。
リリカは、死んだようなヒカルの顔をぺちぺちと叩いた。知っていて強がっているのだとばかり思っていたが、まさか本当に知らなかったとは――。
突然、ヒカルはハッと意識を取り戻すと、直ぐにリビングへ向かって駆け出した。姉とその婚約者が、今まさに二人きりでキッチンに居ることを思い出したのだ。
ヒカルがリビングの扉を開け放つと、アオイはダイニングテーブル、淡路はソファの前でニュースを見ながらネクタイを首に巻いているところだった。
「おはよう。リリちゃん」
「リリカちゃん、おはよう。今日はネコの日らしいよ」
いつもと変わらぬ、二人の笑顔。
ヒカルはドアの傍に立ち尽くしたまま、胸を抑える。
「ね、ネコ? あ! にゃんにゃんにゃん、ね! 可愛い~!」
大げさに声を上げて笑顔を振りまいてから、リリカは今にも泣き出しそうなヒカルの頭を撫でてやる。
アオイと淡路が不思議そうにするのを見て、リリカは困り果てて笑った。
「リリカぁ……」
遂に耐え切れなくなって、ヒカルは崩れそうな体をリリカに預けるように抱きついた。人前だということは分かっていたが、今はもうそれどころではない。
「あら。なあに、ヒカル。リリちゃんに甘えちゃって」
アオイと淡路は、仲がいいと、二人を微笑ましそうに見ている。
「ヒカル。ゴメン! 私が悪かったってば! もう。ヒカル……」
ヨシヨシと撫でながら、リリカは必死にヒカルを宥めている。
ヒカルはリリカに体を預けたまま、今にも声を上げて泣き出しそうになるのを堪えていた。




