4-6 テンペスト ⑭
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十六時五十三分。
淡路の車で移動して、二人がその場所に着いたのは数分前の事。二人は今、高台にある公園の柵に身を寄せて港を眺めている。
港はどこも光に溢れていて、その中にあっては海ですら黒いシルクの布のようだ。かまぼこ型の屋根をした倉庫の向こうには大きな橋が架かっていて、その上を赤や黄色の光が忙しく行き交っている。
日はすっかり暮れて、公園のベンチには幾人かのカップルの姿があった。彼らは皆、二人の世界に浸っている様子だ。
アオイと淡路は、しばらく無言でいた。互いに視線は港へ向いていたが、意識はそれとは別の所にある。いつまでもこうしていられないことは分かっていたが、互いにそれに気づかないフリをしていた。
やがて、最初に口を開いたのは淡路だった。「少し寒かったかな」と、淡路は呟く。彼のそれは、応えを求めていない。
アオイは諦めたように、口を開いた。
「――最近、副業が忙しいみたい? そろそろ、無理が祟ってきたんじゃないの」
「ああ。お説教でしたか」
淡路は普段してみせるように、笑顔を貼り付けたまま横顔で応える。
「遅刻のお説教でそんなもの持ち出すなんて、怖い人ですね。アオイさん」
淡路の言葉は、アオイの右ポケットの中で握られたままの銃を指している。
「そうやって演じるのも、限界なんじゃない?」
「どうかな。……演じる役が多いのは、アオイさんも同じでしょう? 東條家の長女。特務課の係長。それに……泉リリカの母親役――」
アオイは港を見ながら、淡路の言葉に目を細めた。笑ったのだ。
「リリカちゃんのお母さん、とっくに亡くなっていますよね? あなたは、それを隠している。天下井課長は、それも交渉に使ったのでは?」
そうねと、アオイは答えた。彼女は、否定もしなければ誤魔化しもしない。天下井の名前が淡路の口から出た時点で、アオイはもう誤魔化すことは無意味だと悟っていた。
アオイは、課長の天下井と密約を結び特務課に籍を置いている。淡路は既に、それを知っているのだ。
「無理しましたね。どういった理由か存じませんが。……ご自分の戸籍を用意した時より、大変だったのでは?」
淡路は手元に視線を落として、それからまた視線を上げた。彼は言葉にすることの重みを理解していて、そのために吐き出した自分の言葉で痛みを覚えている。
「そうね。正直、きつかったかな。でも、リリちゃんのおばあちゃんに頼まれちゃったし。高校を卒業するまではって、約束しちゃったの」
明るく笑い飛ばしながら、アオイはポケットから手を取り出して髪を耳に掛けた。今日の彼女は、耳になにも着けていない。
アオイは困ったなと笑いながら、リリカの祖母の話をする。
リリカの祖母――泉センカは引っ越した時からのお隣さんで、アオイが大学に通っている間はヒカルの面倒も見てくれていた。彼女は胸に病を抱えていたが、孫たちの前では常に明るく振舞っていた。だからリリカも、最期まで病気のことは知らなかったのだという。
「亡くなる直前に、『実は……』って。ビックリでしょう? 『後は、お願いします』って言われたの。……多分、おばあちゃんは、私のことも気付いていたんじゃないかな」
アオイの声のトーンが変化したことに気付いて、淡路は彼女に顔を向けた。
アオイは港の方を向いたまま、左のポケットからなにか取り出して淡路の方へ腕を出す。
アオイの手からケースに収められたマイクロSDを受け取りながら、淡路はそれについて尋ねた。
アオイは小さな声で、「全部」だと答える。
「ちょっと前から用意してたの。それが、私の全部。あの場所について覚えていることも、私が東條アオイになった経緯も、課長との契約も――」
淡路はケースの中身と、アオイの横顔とを交互に見つめる。
アオイにはそんな彼の視線が、「どうして」と尋ねているように思えた。
「分かるでしょ? 私は……もう、降りられない。私には特務課に居続ける理由があるし、『東條アオイ』であり続ける必要がある。でも、あなたは違うでしょう?」
淡路が口を開く前に、アオイは直ぐに言葉を続けた。
「婚約したのは、そうすればあの二人を守ってもらえると思ったから。それだけ。……もう、出て行って。手土産があれば、あなただって手を引きやすい。これ以上、『淡路』で居続ける理由はない」
出来るだけ一呼吸でそう言い切ると、アオイはそっと息を吐いた。つかえていたものが言葉とともに胸から吐き出されたようで、それは彼女を脱力させる。同時に、アオイの胸には言いようのない喪失感もあった。
淡路は視線を再び手元に戻すと、プラスチックケースを開いて中身を取り出す。
アオイは目を伏せながら、淡路の指が動くのを隣で感じ、彼の言葉を待っていた。
東條アオイという存在であり続ける必要があると言いながら、その情報を他人の手に渡す――。アオイの行動に矛盾があることは、淡路だけでなく彼女自身も気付いている。
淡路が、アオイの名を呼んだ。
アオイは一度目を閉じて、それから再び目を開く。最後だと決めた笑顔で、アオイは淡路の方へ顔を向けた。「さようなら」を言う準備は出来ていた。
「えい」
アオイの眼前で、マイクロSDが二つに割れる。
なにが起きたか理解できないでいるアオイの前で、淡路は割れたマイクロSDを更に曲げて細かく砕いた。
「ちょっと! なに……なんで、笑っ……」
「だって、馬鹿だから」
突然、淡路にペチンと額を弾かれて、アオイは目を瞑った。彼女が額に手を当てて痛みに堪えているその横で、淡路は砕いたマイクロSDを柵の向こうへバラバラと撒いている。
淡路は普段顔に貼り付けているのは違う顔で、困ったような、照れているような様子で笑っていた。
ベンチに座っていたカップルは何組か入れ替わっていて、新しく来た彼らも既に二人の世界に入り込んでいるようだ。
橋を行く車の数は増えていて、光がさらに増している。
淡路は再び、アオイの方へ目を向けた。
アオイは俯き気味に額を擦りながら、下唇をキュッと嚙んでいる。
「……真面目な話をしてるの」
アオイの口調は、淡路が笑っていることを咎めている。
「すみません。でも、好きな人に『好き』って言われたら、こんな顔にもなりますよ」
「言ってない」
「同じですよ。アオイさん、僕を逃がそうとしてくれたんですね」
「してない。そんなの」
顔を隠したまま、アオイは淡路から顔を背けた。耳に掛けていた髪が下りて、彼女の横顔を隠している。
遠くで、ボオーッと、汽笛の音が聞こえた。船が港へ入ってくるようだ。
その音に紛れるように、笑わないでと、アオイは小さく言った。顔は相変わらず、手で覆っている。
「本当に嬉しくて、つい」
すみませんと言いながら笑って、淡路はアオイを後ろから抱く。
アオイは両手で顔を隠したまま、固まっている。
アオイと特務課になにが起きていて、彼女がなにを思ったのか――淡路には、それが分かるように思った。その中で、彼女が自分に対してアクションを起こしたことを、彼は愛おしく思っている。
堪えきれず、淡路はまた笑顔になった。
「――空です。アオイさん」
「空?」
「そう。本当は、パイロットになりたかったんだ」
アオイは淡路の言うそれが、以前自分が投げかけた質問の答えだと気付いた。
誰にも内緒ですよと、淡路は冗談めいて笑う。
アオイは顔から離した手を、淡路の腕に添えた。
一蓮托生だと言ったり、逃げろと言ったり、そんな一貫しないアオイの行動の裏に、淡路は自分への思いを読み取っていた。そしてアオイも、自分の気持ちをようやく理解しようとしている。
アオイは、淡路と自分とが、根っこの部分でよく似ていることに気付いた。互いに本物ではない存在で、歪んだ部分がピタリとハマる。だから一緒にいる時は、素で居られるのだ。それはとても、世の中の理想的な男女の形とは程遠いものだったが。
「作戦会議が必要ですね。アオイさん。僕ら、もっと話さなくちゃいけない」
淡路が耳元で笑うのを、アオイは心地よく感じて目を閉じる。目の裏には幾つもの顔が浮かんで、そのどれもが彼女を咎めた。理由は、分かっている。
最悪だと、アオイは呟こうとした。それは声にはならず、景色の中に消えていく。本当の気持ちは、もっと別の言葉だった。
脳裏では、佐渡がいつもの皮肉めいた顔で「大馬鹿野郎だ」と呆れている。アオイは、それに笑顔を見せた。自分が大馬鹿野郎なら、人間でないと分かっている相手に愛を囁く淡路は一体何者だろう。
目を開くと、アオイの視界には光が溢れていた。
愛していると、淡路が言う。
アオイは淡路に体を預けて、眩しそうに目を細めた。
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