4-6 テンペスト ⑪
*
十三時半。
「――っぱ、だめえ……っ!」
込み上げてくるものに耐え切れず、リリカは口元に手を当ててダイニングテーブルから顔を背けた。彼女の目からは、ボロボロと涙が零れ落ちている。
「分かるよ……。いいよねぇ……」
リリカに応えながら、ヒカルは鼻をかんでいる。彼の目にも涙が滲んでいて、鼻は赤くなっていた。
ダイニングテーブルにはヒカルのスマートフォンが置かれていて、そこからは繊細な歌声が流れ続けている。それはヒカルが先日カラオケに行った際に、クラスメイトの藤沢が歌ったバラードだ。
その動画は友人の山田が撮影していたもので、余りの素晴らしさに皆が聞きたがり、今ではクラス全員に共有されていた。藤沢はそれに大変気をよくしていて、次のカラオケを楽しみにしている。
「何度聞いても、泣いちゃうんだよ」
ヒカルは鼻をかんだティッシュを丸めて、ゴミ箱に放っている。
「分かる! 聞く度に染みるっていうの? どんどん、よくなるんだけど!」
リリカはティッシュを畳んで、目元を押さえるように涙を拭いている。堪えようとすればするほど、涙は流れ出てくるのだ。
リリカはヒカルに、この動画をSNSで紹介してはどうかと尋ねた。
「投稿したらしんだけどね。でも、伸びないんだってさ。こんなにいいのに」
理解できないという様子で、ヒカルはスマートフォンで動画投稿サイトの画面を表示する。動画のタイトルは、「柔道一筋の俺が歌う『雪の翼 ~とまどい~』」となっていた。動画の再生回数は、二桁だ。
リリカは、自分のSNSで紹介してもいいかと尋ねる。
藤沢本人に許可を取ってほしいと言われたので、ヒカルは早速チャットで連絡を入れた。クラスメイトも自宅で課題をやっているはずなのだが、藤沢からは五分と経たずに「大歓迎です」と返信が届く。
「藤沢、絶対サボってたな」
返信の速さに驚いて、ヒカルは笑う。彼は、自分もサボっているということを忘れている。
リリカはスマートフォンを取り出して、早速その動画についての紹介文を作成していた。
「藤沢君の持ち味はさぁ、見た目と歌声のギャップじゃない? この歌も少し前のやつでしょ? どっちかっていうと、アオ姉とか淡路さんより上の世代の?」
「あの角刈りがこんな声出すとか、反則だよねぇ。あと、歌詞がいいんだ。この曲」
「分かる! この歌、歌詞を聞かせる系だもんね~。私も藤沢君にリクエストしたーい!」
(それは、ちょっと嫌だな)
少しだけ嫉妬して、ヒカルは呟く。彼は気持ちを切り替えようと、お茶を淹れるために席を立った。嫉妬するような男には、なりたくない。
台所でカップを用意しながら、ヒカルはリリカになにを飲むか尋ねた。
リリカは少し考えてから、香りのよい紅茶が欲しいと言う。
ヒカルは茶葉を保管しているポットの並ぶ棚を開けて、ストロベリーやローズのフレーバーティーを取り出した。
「ベリー系のやつでいいかな? 気分に合うんじゃない?」
ヒカルが尋ねると、リリカは嬉しそうに頷く。
ヒカルはお湯を沸かしながら、空になった茶葉のポットをシンクに入れている。実をいうと、残りが少ないので単に飲み切ってしまいたかったのだ。
自分用には緑茶のティーバッグを用意して、ヒカルは湯が沸くのを待った。
「あ、もうイイね付いた~。これで再生回数が増えたら嬉しいね」
明るいリリカの声の後、彼女のスマートフォンからは藤沢の歌声が流れ始めた。
歌は、過去を嘆きながら、それでも前向きに生きていくことを歌っている。どれだけ他人を傷つけてしまったのかと、不器用な生き方しか出来ない自分を呪う主人公。しかしその主人公は、一人の理解者と出会うことで自分と正面から向き合うのだ。
その主人公は歌の中で、自分には愛される権利も愛する権利もないと嘆いていた。しかし歌が進むにつれ、彼は自分が傷つくことを恐れていただけだと気付く。
なにかを手に入れるために、無傷ではいられない。生きることは傷つくことで、他人の優しさすら怖い。そんな主人公が、後悔を抱えながら、それでも生きていくのだと決意する四分半のストーリーだ。
いい歌だなと、ヒカルは鼻をグスグス鳴らしながら息を漏らした。
「あ、そういやさ、来月の誕生日なんだけど。一緒に、第二東京タワー行かない?」
キッチンの棚に引っかけてあるティッシュカバーに手を伸ばして、ヒカルは鼻をかむ。
沸いたお湯をヤカンから保温ポットに移して、ヒカルはリリカのカップに湯を半分くらい注いだ。カップを温めるためだ。
返事がないなと、ヒカルは顔を上げる。
カウンターの向こうのリリカは、ダイニングテーブルに乗り出してヒカルの方を見ていた。
「それ、今言う?」
「え? なんで?」
「角刈りの男の子が歌う動画観ながら、言う? 鼻かみながら?」
「え? 藤沢、歌上手いじゃん」
「上手いけど! 凄いけど! でも! ロマンチックとかじゃなくない?」
「いい歌だと思うけど……」
「そうなんだけど! 大体、『あ、そういやさ』ってなに? なんでそんな、ついでなの?」
「そんなつもりは……。でも、そっか。ごめん。思い出した時に言っとかないとって……」
「え? 忘れそうだったってこと?」
しまったと、ヒカルは唇を噛んだ。
リリカは頬を膨らませると、ダイニングテーブルの上の荷物を慌ただしくかき集めて胸の前に抱え込む。
「バカッ! 知らない!」
大嫌いと叫んで、リリカはリビングを飛び出していく。
慌てて追いかけたヒカルの目には、彼の部屋に飛び込んでいくリリカの後ろ姿が見えた。喧嘩すると、リリカは家には帰らずに彼の部屋に閉じ籠ってしまう。
怒らせてしまったことと、部屋を占拠されてしまったことで、ヒカルは溜息を漏らした。さすがに言葉が足りなかったと、彼は反省している。
「リリカ。ごめんよ。お茶飲もうよ」
自室のドアの前に立って、ヒカルは声を掛けた。
ドアの向こうからは、要らないと叫ぶ声がする。
やってしまったと、ヒカルは額に手を当てて深い溜息をついた。
隔日更新中……
次回は12月3日21時頃を予定しています




