4-6 テンペスト ⑨
*
同時刻。
社内の廊下を歩きながら、向島は頭の中で仕事のスケジュールを組み直していた。弟のホマレから入った情報のことを考えると、この後は忙しくなることが容易に想像出来る。
窓の外は、よく晴れていた。時折、風が窓を揺らしている。
向島の左手にはコーヒーショップの紙袋があって、中にはサンドイッチとミネラルウォーターのボトルが入っていた。このまま公園にでも出て食事が出来れば気分転換になるのだが、残念ながら今の彼に時間はない。
向島が彼のオフィス――ということにして占領している部屋――に向かっていると、前からアオイが姿を現した。
アオイは向島の姿を認めると、軽く手を挙げて彼に駆け寄る。
「良かった。結構、元気そうじゃない」
「元気に……見えるか?」
あれからどんな気持ちで待っていたかと、向島は小言を口にしそうになる。
アオイは向島が口を噤んだので、やはり体調不良は本当なのかと不安になった。
「じゃあ、本当に体調が悪いのね。熱は? 食欲はあるの?」
アオイに心配そうな様子で顔を覗き込まれて、向島はホマレの店で呑んだ時のことを思い出す。あの日のアオイは顔を赤くして、物憂げな表情で静かにグラスを傾けていた。向島には、それが可愛らしく見えていたのだ。
アオイの様子を見るうちに、向島は自分が体調不良だと誤解されていることに気付く。それを直ぐに否定しようとして、向島は弟の戯言を思い出した。弟によれば、アオイは甘えられるのに弱いという。
(甘える……甘える……)
「熱はない。……が、胸が苦しいな。不安だから、少し、手を取ってくれないか」
口にして直ぐ、向島は後悔する。彼なりに甘えてみたつもりだったが、これでは馬鹿のようだ。そもそも彼は、体調管理が出来ていないと思われることも嫌だった。
「手? これでいいの? ……ねえ、本当に熱はない? 赤いんだけど」
アオイは、向島の右手を両手で包んだ。向島がそんなことを言い出すのは初めてのことだったので、彼女は本当に心配している。
向島は、自分の右手がアオイの手の中にあるのを眺めながら、固まっていた。アオイの手は、自分のそれに比べて随分と小さい。
(東條。お前は、警戒心が無さすぎる。これだから、あんなやつに付け込まれるんだ。大体、そんなことでは……)
ハッとして、向島は視線を上げた。アオイに苦言を呈していたつもりになっていたが、それは発話されていなかったことに気付いたのだ。
アオイは向島を見て、首を傾げている。
アオイは、医務室へ行くかと尋ねた。彼女の目に映る向島は首まで真っ赤になっていて、とても平気には思えない。
向島は「問題ない」と答えようとして、口を開く。しかし、直ぐに口を閉じた。それから一呼吸おいて、彼は再び口を開く。
「……悪いが、オフィスまで付き添ってもらえないか……」
もう向島は、アオイの顔を見ることも出来なくなっていた。恥ずかしさのために彼の顔はさらに赤くなり、掌には薄らと汗を掻いている。コンクールですら、こんなに緊張することはなかったというのに――。
そして向島は、アオイに手を引かれたままオフィスへと向かった。彼のオフィスのドアは既に視界に入っていて、距離にして数メートル。その距離を一瞬にも、永遠のようにも感じながら、向島は喜びと恥ずかしさとが入り混じった不思議な感情の渦の中に居た。
オフィスに戻ると、向島は直ぐに左手に持っていた袋からミネラルウォーターを取り出した。顔が燃えるように熱く、喉は痛むほどに乾いている。
「珍しい。あの時、以来じゃない?」
アオイは、学生時代の話をしている。あの時は半ば無理矢理マンションまで送ったと、彼女は笑う。
向島はアオイの声を背中で受け止めながら、必死で顔の火照りを鎮めようとしている。
アオイの言う学生時代のことは、勿論、向島も覚えていた。あの時アオイは、向島が求める前に彼の手を取ったのだ。まるで、そうすることが当たり前のように。そしてそれが切っ掛けで、向島はアオイを意識するようになっていった。
「傘は、その右だ」
向島は背を向けたまま、右手でアオイの立つドアの方を指す。ドアの右側には、アオイの傘が立てかけてあった。
礼を伝えて、アオイは傘を手に取る。
「本当は、返す気はなかった」
言ってから、向島は水を飲む。彼は、アオイの視線を背中に感じている。
傘を返せば、それきりアオイからの連絡がこないように思えて、向島はそれが怖かったのだ。連絡を取り合う手段も顔を合わせる機会もあったが、それは無意味なものになるように思えていた。
「俺たちは、互いに話せていないことがある。違うか? それが、誤解を生んでいるように思う。……でも今、お前にするべき話は、これじゃないのも分かってる」
額に手を当てて、向島は目を閉じて静かに息を吐く。彼の頭には、弟のホマレから受け取った情報のことがある。呼吸を整えて、向島はアオイの方へ振り返った。
アオイはいつもそうするように、ドアに凭れて腕を組んで立っている。少し目を伏せて、頬には睫毛が影を落としていた。傘は彼女の隣で、床に影を落としている。
先程まで自分に差し伸べられていた手が、今は自分を拒絶するように見えて、向島はそれを悲しいと感じた。
「お前が此処へこなくても、俺はお前の所へ行くつもりでいた」
仕事の話だと、向島は言う。
「東條。目撃者がいた。あの事件、アナザーで間違いない」
向島の言葉を聞いたアオイの右手が、左腕の二の腕辺りをぎゅっと掴んだ。彼女の表情は、それでも捜査に介入が出来ない事への苛立ちを思わせる。
向島は水のボトルをデスクの上に置くと、アオイの傍へ歩み寄った。
アオイは向島が目の前に立っても、視線を落としたままでいる。向島の目にはアオイのその仕草が、感情を内側に押し込めようとしているように映った。
「東條。高田は、桜陀と繋がっている」
「そんなこと、あるわけが……」
途中で言葉を飲み込んで、アオイは唇を震わせた。
顔を上げたアオイと目を合わせて、向島は頷いて応える。
「正しい情報が全てじゃない。今必要なのは、使える情報だ」
向島の言葉を聞いて、アオイの表情は凍り付く。彼女は腕を解いて、口元に手を当てた。僅かに震えるそれが、彼女の動揺をありありと示している。
「あの事件に関しては、直に証拠がそろう。近いうちに、捜査権は特務課に戻る。そうなれば、あいつはお前を攻撃するぞ」
一句一句、言い聞かせるように向島は言ったが、その必要がないことは分かっていた。アオイの表情は、既に起こりうる事態を悟っている。
アオイは、攻撃の対象が直接自分に向かわないと分かっている。そんなことをするよりも、もっと楽に手を出せる人間が他に居るからだ。
アオイが脳裏に国後や城ヶ島、能登の姿を思い浮かべている時、向島も同じように彼女の部下のことを考えていた。彼らを攻撃することで、結果としてアオイの戦力を削ぐことは可能だ。そしてそれは、容易く行うことが出来る。
向島は、アオイの両肩に手を置いた。彼の目には、真っすぐに自分を見るダークブラウンの瞳が映っている。
「高田を引き摺り降ろせ。東條。守る姿勢も闘う覚悟も、お前には示す必要がある」
お前の仕事だと、向島は言葉を繋げた。それがアオイにとってどれ程の重荷かは理解していたが、それでも彼は彼女に闘うべきだと伝える。
アオイの肩は震えていたが、向島はそれに気付いても彼女を抱き寄せることはしなかった。アオイの目は静かに覚悟を固めていて、闘うことを決めた彼女は誰からの庇護も求めていない。
向島には、自分が残酷なことを言っている自覚があった。結果として、アオイが傷つくことも分かっている。だがどんな方法を選んだとしても、それは避けられないことなのだ。
伝えたいと思う言葉は、幾らでも心の中に湧いて出た。その全てを飲み込んで、向島はアオイの肩からそっと手を離す。彼の目に映るアオイは、ごく自然な様子で普段と同じ笑顔を見せていた。
隔日更新中……
次回は11月29日21時頃を予定しています




