4-6 テンペスト ⑥
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十時二十二分。
会議室からオフィスに向かう途中の自販機で、アオイは缶コーヒーのボタンを押した。
ガコンッという音の後、アオイは自販機から吐き出されたミルクティーの缶を手に苛立ちを覚える。
ミルクティーの缶には、「よっぴーのハッピー占い」と描かれた小さなシールが貼られていた。どうやら期間限定で、よっぴーなる人物とコラボレーションしているようだ。
(……誰よ、よっぴー)
溜息を残して、アオイはオフィスへと向かう。
オフィスでは、佐渡がエスプレッソメーカーの前で腕を組み、能登は自席で昼寝をしていた。
お疲れさまと声を掛けて、アオイは能登のデスクの端をさり気なく叩いてから自席に向かう。起きろと合図したのだ。
能登は慌てて起き上がったが、周りを見渡し、また夢の中へ。
マグカップを手に、佐渡はさり気なくアオイの表情を観察した。どうやら、機嫌が悪そうだ。それは僅かな変化だったが、特務課発足時からアオイと共にいるこの男にはそれが分かるようになっていた。
「珍しいっすね。甘いの」
佐渡に声を掛けられて、アオイはいつもと変わらぬ表情を見せる。
「コーヒーを押したはずなんだけど」
「角の自販っすか?」
アオイが頷くと、佐渡は前にも同じことがあったと笑う。
そうなのねと、アオイは困った様子で笑い返した。
目を伏せるタイミング、指に髪を巻きつける仕草、それらを注意深く観察して、佐渡はアオイの機嫌が相当悪いと理解する。他人の目が彼女を冷静にさせているだけで、本当は今すぐにでも暴れたいに違いない。
「そういえば、国後は?」
「便所っすよ。……少し、遅いですね」
佐渡は時計に目をやると、能登に声を掛ける。能登が慌てて起き上がると、佐渡は彼に国後を探してくるように言った。
また暴れていると困ると、佐渡は独り言のように呟く。
能登は佐渡の独り言を耳にすると、顔色を変えてドタドタとオフィスを出て行った。
「――中々、上手くいかない感じで?」
能登の足音が聞こえなくなってから、佐渡が尋ねる。
アオイは椅子の背もたれに深く体を預けて、クルリと佐渡に背を向けた。昨日とは打って変わり、窓の外には晴天が広がっている。
「ごめんなさいね。気を遣わせる上司で」
ミルクティーの缶を開けようとして、アオイはすぐにそれを諦めた。爪が引っかかって痛かったのと、やはり甘い飲み物が欲しい気分ではなかったからだ。
「他の前で見せないだけ、立派っすよ」
「……それ、嫌味で言ってない?」
「そうじゃないとでも?」
「あーあ。嫌な部下。困っちゃう」
アオイが大げさに嘆いてみせると、佐渡が声を出して笑った。
佐渡はカップに口をつけながら、片手でメールのチェックを行っている。
アオイのデスクの上で、スマートフォンが振動した。アオイは背中越しにその着信に気付いたが、直ぐに振り向く気にはなれず窓の外に目を向けている。
「な~んか、意固地になってんのよねぇ。高田の奴。この事件、そんなに美味しいとも思えないんだけど」
アオイは脚を組み、足先に靴を引っ掻けるようにして、それを行儀悪くプラプラと揺らしている。
先程の会議で、アオイは新宿で起きた事件について報告を行った。佐渡と国後が作成した資料を併せて展開し、防犯カメラに映り込んでいたインドラの姿も証拠として提示。しかし、今回の事件の捜査権が特務課に戻ることはなかった。
ふと目についた「よっぴーのハッピー占い」のシールを缶から剥がして、アオイはその裏に目をやる。
シールの裏には、占いサイトへのQRコードが印字されていた。わざわざそこまでして自分の運勢を知りたいとは思わないので、アオイはそれを小さく折りたたんでゴミ箱に捨てる。確認しなくても、どうせ今日の運勢は最悪だ。
「ありゃあ、ケツに火が着いてんで、必死ってだけでしょう。反社相手なら、色々やりやすい」
「足元グラグラなんだっけ? ああ、怖い」
皮肉を込めて言いながら、アオイは脳裏に友人のモモコを思い出して複雑な気持ちになった。彼女も、高田の現状を知らないはずがないのだが。
「ここらで一発、デカいスキャンダルでもあればいいんですがね。今なら、確実に沈められる」
佐渡は冗談めいて言ってみせたが、彼の表情は真剣だった。これまで特務課が受けてきた扱いから、佐渡は高田に対して良い感情を抱いていない。それは他のメンバーも同じことだ。
アオイは小さく、やめてよと呟く。
冗談だと、佐渡は返した。
アオイはそのやり取りで、佐渡がモモコと高田の関係についても知っているのだと察する。この状況は、やはり宜しくない。
「――そういや、話は変わりますがね。向島さんが体調不良だってんで、ちょっとした話題に」
意外な言葉を耳にして、アオイは椅子をクルリと回転させてデスクの方へ体を向けた。
向島タカネは、普段から体調管理も完璧に行っている男だ。彼はそれが当たり前だと思っているし、事実として彼が体調を崩したのは過去に一度しかない。その一度ですら学生時代のことで、多忙に次ぐ多忙で過労から熱を出したというだけだ。
「騒いでたんでね、向島ガールズが。ピイピイと。廊下でウルセエのなんのって」
「なにそれ? ……ああ、向島のファン?」
「あの色男ぶりですからね。男の俺から見ても、完璧っすよ」
佐渡は惚れ惚れする様子で、溜息を漏らす。彼も向島のファンで、密かに同じネクタイを買ったのだと話した。
アオイは佐渡がそんなタイプにも思えず、話半分に聞いている。
「結婚するなら、ああいう男っすよ」
「そう。してもらえば?」
アオイはスマートフォンをデスクに置いたまま、その上に指を滑らせている。先程の通知は淡路で、彼は少し遅れて出社すると連絡を寄こしていた。
アオイは淡路とのチャット画面に、鬼の顔をしたスタンプを送る。
「見えてる地雷は避けるべきって話っすよ。それがいいのは若い内だけだ。いい歳してそんなもんを踏み抜くのは、ただの大馬鹿野郎ってね」
「なあに? 今日は小言の日?」
そうだと、佐渡は笑っている。
「そう。でも、そんな相手も居ないし。それ、私が婚活でも始めたら忠告してくれる?」
予定もないけれどと自虐するように笑って、アオイはパソコンの画面に視線を向けた。この後も会議――という名の無駄な集まり――が続くが、全く空きがないわけでもない。
(一応、顔出しとくかな。傘のこともあるし……)
アオイは向島の顔を思い浮かべて、手元に目を伏せる。一体どんな顔をして、彼になにを話すべきか。今だ、答えが見つからないのだ。
佐渡はアオイの表情を見て、一度視線を部屋の入り口へ向けた。そしてまだ能登が帰ってこないことを確認すると、彼は口を開く。
「天下井課長は、知ってるんすか? お宅の同居人」
アオイは一瞬、胸を刺されたように思った。彼女は表情を変えることなく、なんの話かと問い返す。
佐渡は冷めたコーヒーを飲み干して、苦い顔をした。
「婚活相手にゃ不向きって話です。あれは、幽霊みたいなもんだ」
佐渡は立ち上がると、アオイのデスクへと歩み寄った。
アオイはデスクに片肘をついて、佐渡の目を見ている。
「――でも、優しい佐渡は、黙っててくれるんでしょう?」
目を合わせたまま、顔色一つ変えずアオイは言い放った。
佐渡はアオイのデスクの前に立って、彼女と真っすぐに向き合う。
「そうっすね。俺も、上司が変わるのは困ります。……現状、疑いがかかるようなことはないでしょう。ご安心を」
佐渡は仰々しい仕草でまるで舞台役者のように頭を下げると、いつものシニカルな笑みを見せた。
それから彼は、「能登の帰りが遅いので、様子を見に行く」と告げる。木乃伊取りが木乃伊になったと、彼は苦笑している。
佐渡がオフィスを出る間際、アオイは彼に向かってミルクティーの缶を投げた。缶は、佐渡の出した手に吸い込まれるようにして向かっていく。
「おっと。こりゃあ、安い買収だ」
缶を手に、佐渡は口の端で笑う。
アオイは笑顔で佐渡を見送って、彼の足音が完全に聞こえなくなってから、デスクに伏した。
デスクの上に置かれたスマートフォンには、新しい通知が届いている。愛していると、淡路からだ。
(あんた、見えてる地雷だってさ)
そう心の中で呟いて、アオイは笑った。淡路が地雷なら、自分はもっと酷い存在ではないだろうか。
淡路には返信せず、スマートフォンをポケットにしまってアオイは席を立つ。
佐渡が何処まで知っているのか、アオイは考えようともしていない。なにを何処まで知っていたとしても、彼がそれを公言しない人間であることは確かだ。佐渡には、そうする理由も必要もないのだから。
そうして、アオイがオフィスを後にした五分後。オフィスには血相を変えた能登がやってきて、辺りをキョロキョロと見回した。彼は非常に急いでいる様子で、今度は佐渡を探しに出ていく。余りに慌てていて、彼はスマートフォンの存在を忘れている。
誰も居なくなったオフィス。
静寂を破るように、電話が鳴った。それは五回目のコールで切れて、室内はまた無音になる。
その電話が医務室からのもので、内容が国後の体調不良であるということを特務課のメンバーが知ったのは、それから程無くしてのことだった。
隔日更新中……
次回は11月23日21時頃を予定しています




