4-6 テンペスト ⑤
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九時半。
スマートフォンの通知に気付くと、ヒカルはテーブルの向かいで課題に取り組んでいるリリカの様子を窺った。リリカはイヤホンで音楽を聞きながら、集中した様子で書き物をしている。
ヒカルは、そっとトイレに立った。
リリカは、ヒカルがリビングを出てから視線を上げる。なにか、怪しい。
二人のクラスは、どちらも週が明けて直ぐに学級閉鎖になっていた。先週はオンライン授業だったために実感が湧かないが、クラスメイトの多くがインフルエンザに罹患したというのだ。リリカのクラスに至っては、半数以上だという。
そんな事情から二人は、授業ではなくそれぞれの教科から出された課題に取り組んでいたのだった。
トイレの個室に籠もって、ヒカルはドアを背に立つ。中林からは、直ぐに連絡が入った。
「すまないな、ヒカル。無事かね?」
スマートフォンの画面には、ヒカルを心配そうに見つめる中林の姿が映っている。今日の彼は、老人ではなく本来の青年の姿だ。
「はい。すみません、すぐに連絡できなくて。スーツも、また……」
「ヒカル。一番大切なものは、なんだね? それは、命だ。スーツのことなど気にするな。君さえ無事ならば……」
中林が声を詰まらせるのを聞いて、ヒカルも目に込み上げるものを覚えた。インドラのお陰で無事に逃げおおせたが、一人だったならば、今頃はあの屋上で灰と化していたかもしれない。
ヒカルは左腕で、目元を拭った。逃げることしかできなかった自分の無力さを、ヒカルは痛い程に感じている。
「先生。あのアナザーは、何者なんでしょう? それに、あの上半身が女性の姿をした……あれも、今までとは少し違う感じでした」
中林は、画面の中で大きく頷く。
「恐らく、あのアナザーはこれまでのどれよりも強大な、或いは膨大な量の核を手にしている。インドラが闘いを避けたろう? 私には、それが証拠に思えているんだよ」
中林の言葉には、ヒカルも思うところがあった。
あの時、インドラだけでなく、普段は交戦的なキツネまで姿を見せることもなく気配を消してしまった。どうやら、戦闘それ自体を避けたようなのだ。
現場は、雪。深夜で人通りもほとんどなく、人目を理由に交戦を避けたとは考えにくい。そうなるとやはり、キツネは不利だと判断して敢えて逃げたのではないだろうか。
しかしヒカルは、キツネが水の核を有していることを思い出した。水と、炎。単純な考えだが、完全に不利とも思えない。
しばらく考えて、それからヒカルは中林に疑問をぶつける。
「ねえ、先生。核は、あと幾つありますか? 例えば核を、どうにか一度に全て集めたり……そういうことは、出来ないでしょうか?」
「ヒカル。詳しく聞かせてくれ」
「はい。僕って、核の気配を探るのが得意じゃなくて。だから、いつもアナザーの出現を待ってから……被害者が出てからになってしまう。でもそうじゃなくて、アナザーの方からこちらに来てもらえればと思ったんです」
中林は顎に手を当てて、考え込むような様子を見せた。
ヒカルは子供じみた考えかもしれないと前置きしつつ、何故そう考えるに至ったのかをさらに詳しく説明することにした。
「先生に感謝しているのは本当ですし、ハンターをやるのが嫌になったんじゃないんです。でも……でも、このままじゃ、いつか姉にも危険が及んでしまいそうで。先生。怖いんです。姉は、たった一人の肉親だから……」
ヒカルは言葉を詰まらせて、口の端を噛み締めた。アナザーとの闘いの中で、今回ほど自分が無力だと感じたことはない。このままでは、いつか取り返しのつかないことになるのではと、彼は不安を覚えている。
中林はしばらくの間、そんなヒカルの真剣な表情を眺めていた。それから決意を固めた様子で、彼は口を開く。
「ヒカル。君の考えは、正しい。私はね、アナザーとの戦いを、終わりのないものにするべきではないと考えている」
ヒカルは、深く頷いた。
「ヒカル。君に、覚悟はあるかね? 闘いを終わらせるための覚悟だ」
「先生。僕に、出来ることがあれば。……いえ、出来ないことだって、きっと出来るようになってみせます」
それで姉が危険な仕事から離れられるのならと、ヒカルは心の中で強く思った。アナザーの脅威がなくなれば、アオイの仕事は今よりも危険なものではなくなるだろう。リリカのように、アナザーによって親を失う子どももいなくなる。
あのアナザーに対する恐怖が消えたわけではなかったが、ヒカルは自分を奮い立たせて中林を真っすぐに見つめた。
中林は頷くと、それから彼は大事な事だと前置きして話を始めた。
「ヒカル。作戦は至ってシンプルだ。強力な核の反応を利用し、全てのアナザーを一か所に集めて叩く」
中林は、残りのアナザーの数を正確には把握できていないと言った。キツネやインドラといった、他のハンターの所持数が読めないからだ。
ただ、アナザーの元となったもの――つまり、三十年ほど前に宇宙から持ち帰られた地球外生命体の本来の大きさを考えるならば、それはさほど多くはないだろうということだった。
ヒカルは中林の言葉に疑問を抱かず、頷いて応える。
「これまでに君が集めてきた核は、全て君のスーツの改良に使用している」
「じゃあ、どうやって核の反応を生み出すんですか?」
これだと、中林は懐から小さな塊を取り出して見せた。画面の向こうの照明の落とされた部屋の中で、その塊は太陽のような輝きを放っている。
中林はその塊を、核に似せて自作したフェイクだと言った。
「過去にも、核を作り出してアナザーを使役していた者がいたはずだ」
覚えているかと問われて、ヒカルは水の核を所有していた女のことを思い出す。
「あれと同じものを、先生も作ったってことですね」
「そうだ、ヒカル。尤も、全く同じとは言えないが……。この核を使って、先ずは低俗なものを誘き寄せる」
「誘き寄せられたアナザー追って、昨日のアナザーも。そうやって、他も呼び寄せるということでしょうか?」
その通りだと、中林は満足そうに頷いた。これは、ある種の釣りだという。
「ただ、これは出来る限り日時を決めてから行う必要がある。あの二人についても、同じ場所へ呼び寄せる必要があるからだ」
ヒカルは、キツネやインドラとの共闘を目指すのだと理解して頷く。全てのアナザーを集めるということは、それだけ危険も伴うということだ。仲間は多い方がいい。
しかし中林は、あの炎のアナザーはキツネやインドラに狩らせるべきだと主張した。
「この作戦は、アナザーの習性を利用する。つまり、核を求めること。そして、人を襲うことだ。そのためには、人の大勢集まる場所で決行することとなる。ヒカル。君は、あのアナザーではなく、核の回収と一般人を守ることに力を尽くすべきだ」
それが覚悟なのかと、ヒカルは中林の問いかけの真意を理解したように思った。
キツネとインドラをアナザーにぶつけさせ、相打ちさせる。或いは、消耗したところを叩く。これは以前から中林が唱えていたことだが、ヒカルは今だに拒否感が拭えずにいた。どうしても卑怯だと思えてしまうからだ。
しかし家族や恋人のためだと言い聞かせることで、ヒカルは今、それを乗り越えようとしている。
「作戦にあたり、偽物の犯行予告を流そう。あのアナザーの名を語ることで、この作戦の成功率を上げるためだ」
「確かに。彼は、自分の名を語る相手を確かめにやってくるかもしれませんね。……でも、場所や時間はどうしますか? それに犯行予告を出したら、警察の警戒が厳しくなるかもしれません」
アドベンチャーニューワールドの時は、犯行予告があったにもかかわらずパーク側が通常営業を行った。だが、今回も同じようにいくとは限らない。
中林は、犯行予告を行う目的は、警察を誘い出すためでもあると答えた。
「君一人の力で、全ての人を守りきるというのは難しい。勿論、君が非力と言いたいわけではない」
「はい。それは勿論、分かっています」
「ああ。アナザーによる被害を失くす……その目的のために、人々を傷つける訳にはいかないのだ。利用できるものは、全て利用しなくてはな。ヒカル。これは、本当に苦しい闘いになるぞ」
ヒカルは、力強く頷いた。
中林もそれに頷いて応えると、彼は作戦の詳細を練ると告げてテレビ通話を切る。
ヒカルの掌の中。真っ暗になったスマートフォンの画面には、力んだ男の顔が映り込んでいる。
(これでいいんだ。これで、全部終わりにするんだ)
ヒカルはぎゅっと目を瞑って、左手を胸に当てた。
ヒカルは数年前に、事故で心臓を失っている。それを中林によって助けられなければ、彼はハンターとしてのもう一つの人生を歩むことはなかっただろう。だがそうしなければ、今の日常もなかったのだ。
ハンターとしてアナザーを狩ってきたこれまでに後悔を抱いたことはなかったが、ヒカルはそれに決して満足もしてない。もともと闘うことが好きではなく、そうしなければならないという必要性から行ってきただけだ。
「これでいいんだ……」
呟いて、ヒカルは唇を噛み締める。
その時、ドア一枚を隔てた向こうには、リリカの姿があった。彼女はヒカルの様子を怪しく思い、彼が席を立った後でこっそりと後をつけていたのだ。
ドアの向こうの会話は小声で、さらに個室の中は音が反響しているというのもあって、ほとんど聞き取れなかった。しかしリリカの耳には、なにかを決意するヒカルの独り言がハッキリと聞こえている。
ヒカルとリリカは今、ドアを挟んだ状態で、互いに同じように胸に手を当てていた。彼らは互いの思いを知らなかったが、今は同じことを祈っている。
(この幸せが、いつまでも続きますように――)
ヒカルの目の裏には、アオイやリリカ、淡路や友人たちの姿が浮かんでいた。
隔日更新中……
次回は11月21日21時頃を予定しています




