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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
Another

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233/408

4-5 Brother ⑩



 マンションのインナーテラス。リビングから直接繋がるその空間には植物のポッドが並べられ、小さなランプの灯りに照らされている。


 テラスの隅には、腰高程の小さな温室棚が置かれていた。その中では、一季咲きのバラが春の訪れを待っている。水と愛情とをタップリ受け取って、バラは日々すくすくと成長を遂げていた。


 向島タカネはインナーテラスに置かれた一人掛けのソファに脚を伸ばして、降り始めた雪を眺めていた。彼が仕事を終えて帰宅したのは、十九時過ぎのこと。それから一時間も経っていない今、雪は予報よりも早く降り始めている。


 雪を眺めて、それを懐かしいと思う。そんな自分を、向島は不思議だと感じている。


 海の向こう。向島が暮らしていたその国は、一年の大半が冬だった。辺りは雪ばかりで、人々は陰気で、空は沈んでばかり。何処かへ行こうと思っても、降り積もった雪に足を取られ、思うようにはいかない。だから彼は、雪が嫌いだったのだ。


 そんな自分が、今は雪を懐かしいと感じ、チラチラと舞う姿を美しいとさえ思う。向島には、それが不思議で仕方がない。


 リビングの隅には、古いアップライトピアノが置かれていた。落ち着いたブラウンの木目が美しいそれは海外製で、調律など十数年以上されていない品物だ。それは向島の母親の実家に置かれていたもので、処分される寸前だったものを彼が引き取ったのだった。


 向島がピアノを引き取ると申し出た時、それを聞いた誰もが、彼が再び音楽の道に戻るのだと考えて喜んだ。父などは新しいピアノを買うと言って、息子を困らせたほどだ。


 しかし向島は、引き取ったピアノをリビングの隅に放置して、そのままにしている。


 部屋のインテリアから浮いているそのピアノは、度々、向島の隙を突いては彼の視界に入り込もうとしていた。向島はそれを、ただチラリと見るだけ。溜息も侮蔑もなく、後悔も気がかりもない。勿論、愛情などなかった。ピアノは、ただそこにあるだけ。


 雪は積もるだろうかと、向島は心の中で呟いた。雪は、舞っている間が美しい。積もった後は悲惨だ。グチャグチャに踏まれて、汚らしく消えていくのを待つしかない。


 ただ、向島は、踏み荒らされて汚らしくなった雪の塊が、陽の光で溶かされていく時に見せる輝きは好きだった。キラキラと光を乱反射させて、華やかに、まるで歌う様にして消えていくのだ。それは、喜んでいるようですらあった。


 リビングから聞こえてきた音で、向島は目を伏せる。個別に着信音の設定されていないその相手は、彼が連絡を待っている人物ではなかった。


 数度目のコールの後、留守電に切り替わるメッセージが流れ出す。


「兄さん? ……本当に居ない?」 


 電話の相手は、弟のホマレだった。


 向島はスマートフォンの方へ視線を送ったが、やはり無視することを決めて再び空へ目を向ける。


「母さんから、また荷物だよ。……いい加減、諦めて自宅で受け取ってくれない? 兄さんも、いい大人なんだからさあ」


 大げさに溜息をつく弟に、向島はフンと鼻を鳴らした。兄だ弟だと言っているが、二人は同じに生まれたのだ。ただタカネの方が、数分早かったというだけ。それだけで彼らは、兄と弟という立場に押し込まれてしまった。


「ねえ、本当に居ないの? ……アオイちゃんのことも聞きたかったんだよ。僕がやらかしちゃって、それで凄く酔っちゃったろ? 心配でさあ」


 嘘つきめと、タカネは呆れて目を閉じる。彼は、弟が間違えたフリをして、ワザと強い酒を出したことに気付いていた。


 弟のホマレは、普段はそんなことを平気で出来るような性格ではない。彼なりに考えがあってした行動だと理解しつつ、それでも向島は怒っていた。一歩間違えれば、大変なことになっていたからだ。


「兄さん? 居ないの? ……じゃあ、また掛けるよ。ああ、そうだ。なんだったかな。……そうだ。お客さんがね、なんだか変なものを見たとか話しててさ」


 向島は、横目でスマートフォンをチラリと見やる。


「えっと……いつだったかなあ。ちょっと曖昧なんだけど、前に放火事件があった日だったと思うんだよね。確か。それでさあ、一応……」


 ソファを降りてリビングに向かうと、向島はテーブルの上に置かれていたスマートフォンに触れた。


「ホマレ」


「……なんだ。やっぱり居たんじゃ……」


「連絡先を送る。そこにメールで寄こせ」


「え? ちょっと、兄さん……!」


 無理矢理通話を切ると、向島はスマートフォンを手にテラスへ戻った。


 風は弱まってきていたが、雪の粒は段々と大きくなってきている。このまま雨に変わらなければ、明日の朝は少し積もっているかもしれない。


 車に積んだままのアオイの忘れ物を思い出して、向島は溜息を漏らす。彼女はそれを忘れているのか、それとも連絡を寄こしたくないのか――。


 自分から連絡することも出来たが、向島はアオイからの連絡を待っている。彼女の手札に、そのための口実は幾つもあった。そしてそのどれを選んだとしても、向島は受け入れようと考えている。


 今、二人の関係は、友人の枠から一歩踏み出したところにあった。そこからさらに進むか戻るかは、お互い次第なのだ。


 いっそのこと、大雪にでもなればいい。なにもかも埋め尽くしてしまえば、諦めて心が晴れるかもしれない。向島は、心の中でそう呟くのだった。

  

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