4-5 Brother ⑨
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南城家の庭には、小さな池があった。昔は父親のセイイチロウが鯉を飼っていたのだが、今はなにもいない。そのため父親はすっかり池に興味を失っていたが、今でも掃除だけは行き届いている。
池を覗き込めば、水面には様々な表情が映り込んだ。しかしそのどれもが好きになれず、南城サクラはいつも自分が映り込まないように距離を置いて池を眺める。
池は空の雲も、月も映す。そこにあるものは本物ではなかったが、手を伸ばせば容易に掴むことが出来るように思えた。それは掴み切る前に、波紋とともに消えてしまうが。
南城は時折、葉や花びらが浮かんでいるのを見つけては、それが風でフラフラと、ゆらゆらと漂うのを眺めた。なにも考えずにいられるその時間は、彼女にとって貴重だった。
この日も南城は池の傍にしゃがんで、池の水面が風に揺れるのを眺めていた。時刻は随分前に十六時を過ぎた筈で、それからどれほど時間が経ったか分からない。辺りはもう暗くなっていて、冷え込んできていた。
道場の方からは、小学生の子供らが稽古に励む声が聞こえてきている。それに交じって、時折父親のセイイチロウが檄を飛ばすのが聞こえた。
小学生の後は、中高生。その後父親は、社会人相手に稽古をつける。議員の仕事だけでも忙しいはずなのだが、彼が道場に出ないことはなかった。南城が竹刀を手にしない日がないように、父もまた同じなのだ。
時折強い風が吹いて、その度に南城は部屋へ戻ろうと決意する。しかしどれほどの寒風に晒されても、南城の腰は上がらない。
直に夕食の時間になるが、父は道場で、母親は観劇に出掛けたままだ。兄は昼食前に見たきりで、どこでなにをしているのかは分からない。南城は、そんな家に戻りたくないと思っている。
南城は、いっそのこと、何処か遠くへ行きたいと願う。自分という人間を知る者のない場所で、一から生まれ直したように生きるのだ。しかしそれでも彼女は、敷地内から出る勇気すら持てず、こうして池をぼんやりと見続けている。
そんな時間が、さらに十数分過ぎた頃。
玄関の方が騒がしいことに気付いて、南城は顔を曇らせた。母親の帰宅とも考えたが、雰囲気が明らかに異なっている。
心は疲れ切っていたが、南城はスッと立ち上がり、縁側へ向かって歩いていく。庭から外へ出て玄関へ向かっても良かったが、客人の可能性もあることを忘れてはいなかった。
玄関の傍へ差し掛かった時、廊下の向こうから、家政婦の川村がほっとしたような顔で駆けてきた。
「お嬢様。今、皆で探しておりました」
「すまないね。外に居たんだ。どうした? ……もしや、兄が――」
川村は珍しく、南城の言葉を遮って首を横に振った。
それを不思議に思いながら、言われるがまま南城は玄関へ出ていく。
玄関には、北上が立っていた。
「北上? なんだ、急に」
驚いて声を上げ、直ぐに南城は周りを見渡す。幸い、川村は既に下がっていて、他に人の姿はなかった。
北上は、左手に紙袋とビニールの小さな袋を持って立っている。休日ということもあっていつものスーツではなかったが、表情は相変わらず硬かった。
北上の方へ近付いて行って、南城は改めて同じ質問を投げる。
北上は少し考えたような顔をして、それから左手に持っていた紙袋を南城の方へ寄こした。
「オミヤゲデス」
「……ん。ああ、うん」
受け取って、南城は何処かへ出掛けたのかと尋ねる。
北上は返答に困った様子で、それから黙った。
(さては……横田さんか、浦田さん辺りに渡されたな)
北上の持ってきた袋の中には小さな箱があって、それは南城家も贔屓にしている和菓子屋のものだった。中身は恐らく、和三盆か落雁だろう。
「すまないな。こんな高級なもの」
わざとそういうと、北上が少し驚いて――いるように南城の目には――見えた。
やはり自分では用意していないなと、南城は心の中で笑う。騙し合いの出来そうにない北上を見ていると、今は何故か安心する。
「……こっちを買った」
北上が、手にしていたビニール袋を南城の方へ寄こした。駅前にあるコンビニの店名が印字されたその袋の中には、カップ入りのかき氷が入っている。蜜柑がぎっしりと隙間なく乗せられたそれは、どうやら期間限定商品のようだ。
「君が、居なかった」
言ってから北上は、他の言い方を考えるような素振をした。しかし直ぐに諦めて、彼は南城の方へ視線を向けている。
南城は、ビニール袋と北上とを交互に見た。ビニール袋の持ち手は丸まってクタッとしていて、かき氷の容器は周りに霜を付けている。
「そりゃあ、そうだ。居ないよ、いつもは。だって、私だって他に……」
南城は北上の顔を見られなくなって、手元に視線を落とす。今はなにを言えばいいか分からなかったが、北上が何も言わずに分かってくれる相手でないことは確かだ。だから南城は、自分の中で言葉を探していた。
しかし北上は、そういった空気を読むことが出来る男でもなかった。
「好きだと思った」
南城は北上がかき氷の話をしているのだと思って、頷いて応えた。
それから少し考えて、南城は北上が自分を迎えに来たのではと思う。そうでもなければ、土産を渡すという用件を終えた北上が、何時までも南城家の玄関で棒立ちになっている理由がないのだから。
南城は、真偽の程を確かめようと口を開く。しかし言葉を紡げず、彼女は口を閉じた。そんなことを尋ねるのは、おかしいように思えたのだ。
それからまた少し考えて、南城は別の尋ね方をしてみることにした。
「――これ、冷凍庫に入れておけばよかったんじゃないか?」
お前の家の――必要なはずのその言葉を、南城はつけ忘れた。
北上は、南城と彼女の手の中のかき氷とを交互に見た。それから、困ったように僅かに眉を下げる。
「……慌てていた」
北上は南城に指摘されるまで、本気で気付いていなかった。彼は小さく、すまないと呟く。
「そうか。……馬鹿だね、お前」
南城は、笑う。馬鹿だねと、二回目は声になっていなかった。本当は、別の言葉を思っていた。
手の中のかき氷を見て、南城はまた笑った。今にも雪が降り出しそうなほど寒い日に、わざわざかき氷を土産にするような人間は北上くらいしか思いつかない。
今日は寒いぞと、南城は言う。照れ臭いのと嬉しいのとを誤魔化すように、余計なことと分かっていたが口にしてしまっていた。
北上は、少し目じりを下げている。笑っているのだ。
「あー。あのな、北上。あの、家に……」
「――おや。これはこれは」
聞こえてきた兄の声が背中に刺さるように感じて、南城は息を飲んだ。
兄のケイイチロウは黒っぽい着流し姿で、右腕を懐に入れた恰好で立っている。
南城は、薄らと寒気を覚えていた。足音はおろか、声を掛けられるまで気配すら感じられなかったのだ。それは、今までにはあり得ないことだった。
「サクラ。お前のお客さんかい?」
母親譲りの透き通った声が、南城に刺さる。
南城は無意識に片手を小さく北上の前に出して、庇う様にしていた。兄から感じるアナザーの気配が、彼女にそうさせているのかもしれない。
「この者は、職場の……」
「北上と申します。白鷹学園に勤めております」
北上は南城の言葉を遮ってそう言い、頭を下げた。
ケイイチロウは北上が妹の同僚だと理解して、柔らかな笑顔を見せる。
「これは、失礼を致しました。妹になにかあったのかと、つい心配に。最近、なにかと怖い話を耳にしますから。……ダメですねえ。妹離れ出来ていないのですよ。どうぞ笑ってやってください」
ケイイチロウはそう言うと、人の良さそうな顔で笑った。
北上は、無言で頭を下げている。
「申し遅れました。サクラの兄のケイイチロウと申します。以後、お見知りおきを」
言いながら歩み寄ってくると、ケイイチロウは懐から右手を出して北上の方へ握手を求めた。
南城は兄の行動に驚きつつ、手を出すなと伝えるつもりで北上に視線を送る。
北上は南城の視線には気付いていたが、一呼吸置いてから、右手をケイイチロウの方へ差し出した。
バチッと、爆ぜる音――。
ケイイチロウと北上の手は、握手を交わす前に宙で離れた。
「失礼」
「いえ、こちらこそ。……嫌な時期ですねえ。バチッバチと。どこを触れるのも怖い」
静電気だとケイイチロウは笑って、また右腕を懐へ。
北上は、軽く頭を下げている。
南城は胸を撫で下ろして、北上の方を見た。彼の表情は、いつも通り。なにも変わっていない。
「そういえば、北上先生はどういったご用件で? 奥へお通ししないのかな?」
ケイイチロウが、南城の方へ首を傾げている。
南城が答えようとするのをみて、すかさず北上が口を挟んだ。
「迎えです。……食事です」
「ああ。そうでしたか。それじゃあ、楽しんでおいで。サクラ」
兄に笑顔を向けられて、南城は彼の顔を出来るだけ見ないようにして頷いた。
「北上さん。帰りは、妹を家まで送ってくださいね。夜は、とても危ないですから」
北上が頭を下げて応えると、ケイイチロウは満足そうに頷いて家の奥へと消えていく。
兄の姿が完全に見えなくなると、南城は途端に体中から汗が噴き出すのを覚えた。兄はまだ、自分の正体に気付いていない――それは全くの勘であったが、彼女のそれは当たっていた。
南城ケイイチロウは、妹にも、北上の正体にもまだ気付いていない。彼はただ、ほんの気まぐれを起こして顔を見せただけなのだ。
南城と、北上が声を掛ける。それから彼は、急ごうと言った。
南城はそれを、不思議に思う。「行こう」ではなく「急ごう」だったからだ。二人は別に、本当に食事の店を予約している訳ではない。時間に追われる理由などないというのに。
それでも家から離れたい気持ちが勝ったので、南城はコートを手に北上と共に家を出た。家の者たちの様子が気にかからない訳ではないが、客人に誘われて家を出たということが彼女の罪悪感を軽くしていた。
道を歩きながら、南城は空腹を思い出す。急に体が脱力して、眠気すら感じられている。
「エビか、カニが食べたい」
「エビかカニ」
「うん。天ぷら蕎麦とか」
それはいいなと、北上は頷いている。
南城は、空に向かって白い息を吐き出した。頭上に広がる空は、暗い。




