1-5 確かなもの ②
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扉の向こう。アオイの泣き声を耳にして、淡路はそっと部屋を離れた。
リビングを抜けてテラスへ出ると、淡路は無線に手を添える。
「東條は?」
淡路の耳には、天下井の冷淡な声が響いている。
「お姫様は、ご無事ですよ。あっちこっち、擦り傷だらけですけどね」
そうかと、機械的な返事。
「参りました。こんなの、聞いていませんよ」
淡路の顔には、いつもの笑みは張り付いていなかった。
真相に迫ろうとしているようで、その実、淡路は応えを求めていなかった。彼にしては珍しく、相手を非難する気持ちが湧いたのかもしれなかった。
「君は、君の仕事をすればいい」
「ええ。そうさせてもらいます」
どこまでも機械的な返答に嫌気がさして、淡路は無線から手を離す。
全てを結末まで見通しているような天下井の態度は鼻につくものの、優秀な駒であれば他は問わないという彼のスタンスは、淡路にとっては大変都合が良かった。
淡路は、アオイの部下であると同時に、別の組織の命を受けて単独でとあるプロジェクトについて探っている。そのプロジェクトは、単に「エコール」とだけ呼ばれていた。
今、特務課で淡路の正体を知っているのものは、天下井だけである。
部屋の奥から聞こえてきた音を合図に、淡路は再び笑顔を張り付けた。振り返ると、目と鼻を真っ赤にしたアオイが、フラフラとリビングに入ってくるところだった。
「どうでした? ヒカル君」
アオイは応えずに、ダイニングテーブルの上にあったティッシュの箱に手を伸ばす。
「大丈夫だったでしょう?」
アオイは小さく頷いて、溜息を漏らした。よほど安心した為か、すっかり放心している。
「今、お夕飯の支度しますね」
「食欲ない」
「食べておかないと、持ちませんよ? 明日は、今日より忙しくなりますから。なんたってアオイさんは、現場の責任者ですからねえ」
「本当、最悪。報告書だけで、一日終わる」
「先ずは、関係各所に頭を下げるところからでしょうね」
「……こっちだって精一杯やってるのに。なんで私が頭、下げなきゃなんないのかしら。池の一つや二つでグチグチと。現場、来てみろっての」
「まあ、大人ですからねえ。公務員は大変だなあ」
宥めつつ、淡路はキッチンへ行って、冷蔵庫から冷えたビールを取り出した。
アオイが、途端に機嫌を良くする。
先にリリカの様子を見るといって、アオイは自室へ戻っていった。
その後姿に、淡路は作りものではない笑顔を向ける。アオイはまるで、現場に居た時とは別人のようだ。仕事の愚痴を吐けるくらい、家に居る時だけは気を抜けるのだろう。
ふと淡路は、公園で会った二人の人物のことを思い出した。ヒカルとリリカが通う高校の教師だ。二人は、淡路がアナザーの名を口にしたとき、目に明らかな変化を見せていた。
調べてみようかと考えて、淡路は直ぐにそれを打ち消した。本当に必要なら、その時はいずれ訪れるだろうと考え直したからだ。
壁に掛かっていたエプロンを手に取り、淡路は腰を屈めて冷蔵庫を覗き込む。目についたのは、豚肉と、玉ねぎ。
どんな立場であれ、淡路がアオイに好意を抱いていることは事実だった。淡路にとって真実と呼べるものはそれだけで、他は作られ与えられた一時的なものに過ぎない。
(先ずは、胃袋からといきますか)
良く研がれた包丁とまな板を前に、淡路はアオイを支えていく決意を固めるのだった。




