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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
Another

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222/408

4-4 Liar ⑦



 十九時十八分。


「おっそいぞ~!」


 モモコの顔を見るなり、アオイは苦笑した。仕事を終えて駆け付けた『Winter Rose』のいつもの席には、既に出来上がった様子の友人の姿がある。


 店の奥。飾り棚の傍の、ビンテージなソファ。そこにモモコは腰かけて、テーブルに身を預けるような形でワイングラスを掲げていた。


「どれだけ飲んだの?」


「まだ一本目!」


「ここでは、でしょう?」


 アオイが、モモコの手からボトルを取り上げる。中身は、既に半分程無くなっていた。


 呆れたと、アオイは口を尖らせる。


 それを見てモモコは笑い、チーズを口に運びながら、アオイにもメニューを勧めた。


 アオイがメニューを眺めていると、二人の元には見覚えのない若いウェイターがビールを手に現れた。彼はグラスをテーブルに置くと、ホマレからのサービスだと説明する。グラスを満たす深紅色をした液体は、ほのかに柑橘の香りを漂わせていた。


 アオイとモモコはそれを受け取ると、カウンターの奥で接客している向島ホマレに向けて軽くグラスを掲げた。


 ホマレは人懐っこい顔で笑って、二人に応える。


 ウェイターに追加のオーダーを伝えると、モモコと軽く乾杯して、アオイはグラスを口へ運んだ。


「……で、今日はどうしたの?」


「あのさあ、短刀直入にも程があるでしょ。もっと、楽しんでからにしない?」


「だって、もう酔ってるでしょ? ベロベロになってからじゃ大変だし」


 そりゃそうだと、モモコは笑う。


 店には華やかなジャズが流れていたが、アオイにはそれよりも別のグループの会話が気になっていた。店の中央で飲んでいる三人の男が、先程から「不倫」だの「遊び」だのと不穏な言葉を大声で口にしている。


 モモコの耳に入らなければいいがと、アオイは彼女の酔いが早く回ってくれることを祈った。


「実は、さあ……」


 モモコは口元を緩ませて、それからグラスを傾けた。そうして勿体ぶった様子でカバンに手を入れると、カバンの中でなにかゴソゴソと音をさせて、彼女は赤くなった顔でニンマリと笑う。


「じゃーん!」


 アオイの前に出されたモモコの薬指には、大きなダイヤが輝いていた。


「え? 結婚? おめでとう! 早く言ってよ、もう」


 口にしてから、アオイは直ぐに焦りを覚えた。モモコは、一課の高田課長と不倫関係にあったはずだ。彼以外の男性とも交際しているという話は、これまで聞いていない。


 そんなアオイの心情も知らず、モモコはウットリとした表情でダイヤを眺めながら、大きく頷いている。


「まだ、信じられないんだけどね……。ようやく、奥さんと別れてくれるって……」


 モモコは口を滑らせていたが、彼女はそれにすら気付いていない様子だ。彼女は夢を見ているような表情で、ダイヤが光を反射させるのを飽きもせず眺めている。


 アオイは何とも言えない気持ちになって、グラスを口に運んだ。モモコの口ぶりでは、課長はまだ正式には離婚していないのではないだろうか。そんな状態で他の女性に婚約を申し出る男の良さというものが、アオイには理解できそうにない。


 あっと言う間に空になってしまったグラスを手に、なぜか心許ないような気持ちになって、アオイはモモコのワインを貰って飲んだ。素面で聞く話ではない。


 やがてウェイターが、生ハムとミックスナッツ、ドライフルーツとバゲットの添えられたレーズンバターを運んできた。


 そのついでに、アオイはウィスキーを注文する。細かいことを言わず、ホマレのおススメでと言葉を添えると、ウェイターは頭を下げて戻っていった。


「じゃあ、今日はそのお祝いってことね」


 モモコは当初、相談だと連絡を寄こしてきていた。そのためアオイは不安に苛まれながら店にやってきていたのだ。


 アオイの言葉を聞くと、モモコは視線を落として、それから手にしていたビールのグラスを飲み干した。


 嫌な予感がして、アオイはナッツを口に運ぶ。店に来てまだ三十分も経っていないというのに、気持ちは既に乱高下している。


「彼……本当に、別れてくれると思う……?」


 モモコが口にしたその言葉で、アオイの気持ちは遂に下がり切った。元々彼女は、恋愛事には縁が無い。その上、モモコの相手は既婚者で、さらに仕事の面で言えば多少の恨みすらある相手だ。自分に、なんの助言が出来るだろうか。


 モモコの目を盗んで、アオイは腕時計に目をやった。明日も仕事だというのに、思っていた以上にヘヴィな内容だ。今がまだ遅い時間でないことに、彼女は心の底から安堵している。


 アオイが返答に困っていると、ウェイターがウィスキーを持って現れた。彼はそれについて軽い説明を添えているが、アオイの耳は別のグループの会話に囚われている。


 店の中央にいたグループは、不倫関係にあった女性との最後について語っていた。彼らはそれをまるで武勇伝のように話しているが、単に下半身のだらしなさを自己申告しているに過ぎない。


 グラスに口をつけて、それからアオイはまた考え込んだ。本当は助言ではなく、ただ話を聞いて欲しいだけだと分かっている。だが、本当に友人のことを思うなら、ここで多少は窘めることも必要ではないだろうか。


「あ! やだあ! 来た来た!」


 モモコがケラケラと笑うのを見て、アオイも彼女の視線を追った。


 二人の視線の先には、向島タカネの姿がある。彼はムスッとしながら、雨に濡れたコートの肩を手で払っていた。


 向島は店中の視線を集めながら二人の傍までやってくると、同じ席に腰を下ろす。


「どうしたの? 珍しい」


 アオイが尋ねると、向島は彼女の方をチラリと見て、それから「別に」と短く返した。


「実はね、僕とモモちゃんが呼んだんだ~」


 タカネの後ろから、弟のホマレが顔を出した。彼は手にしていたグラスを兄の前に置いて、モモコと顔を見合わせて笑っている。


 向島の前に置かれたグラスの中身がアルコールではないようだと察して、アオイはそれをさらに不思議に思う。向島がこんな雨の日に、酒を飲むことの出来ない状態で、好きでもない店までわざわざ脚を運ぶとは。


 ホマレはさらに言葉を続けようとしたが、店の奥から呼ばれていることに気づき、また後でと言葉を残して去っていく。


 そんな弟の姿が見えなくなってから、向島はようやくグラスに口を付けた。


「ねえ、見てよ、ほら!」


 テーブルに身を乗り出すようにして、モモコは左手を向島の方へ突き出す。


 向島は、興味がなさそうに視線を逸らした。


「なによ、それ~。おめでとうとか、ないの? アオイも言ってやってよ」


「ない。相手は高田だろう」


 直球過ぎる返しに、アオイは焦りを隠しきれずグラスを飲み干した。喉を降りていく熱を感じながら、とても勿体ないことをしていると、彼女は別の意味でも焦っている。


「……課長だと、なんでダメなのよ?」


 噛みつくようにモモコは言ったが、その答えは彼女が一番分かっているのだ。僅かに潤んだ目元が、それを物語っている。


 アオイはモモコを見ることが出来なくなって、再びナッツを口へ運んだ。やはりなにかアルコールが必要だと、彼女はカウンターのホマレに手で合図する。


 ホマレはなにかのボトルを掲げて微笑んでいて、アオイはそれを大して確かめもせず頷いて応えた。


「別れてくれるって、言ったの。もう、奥さんに気持ちはないって」


「常套句だろう? 信じる女もいるのか」


 向島は退屈そうに脚を組んで、ネクタイを軽く緩めている。よく磨かれた靴の先が、店内の灯りを拾って鈍く光って見えた。


 アオイは目の前のレーズンバターを手に取って、それをバゲットにこれでもかと丁寧に塗り広げている。


「……あんたはねえ、人を信じる心が足りないんだよ。大体、本当に別れるつもりが無かったら、指輪なんて買う訳ないでしょ!」


「そんな輪っか一つで宥められるなら、安いだろう」


 向島の言葉を耳にして、モモコは口元を震わせ、やがてテーブルに伏してしまった。


 アオイはバゲットを口に運びながら、友人が声を押し殺すように泣き出すのを居た堪れない気持ちで見守っている。


 ウェイターが運んできたグラスを受け取って、アオイは中身も確認せずにそれを口に流し込んだ。なにか熱いものが喉を降りて行くのを感じたが、アオイはそれ以上に息苦しさを覚えている。


「でも……だってさあ、好きなの……」


 モモコは泣きながら空いたグラスに残ったワインを注いで、それを無理矢理口に流し込んでいる。


「悪いが――」


 向島がなにか言おうとするのを、アオイが彼の腕を引いて遮った。


 それからアオイは向島に生ハムやレーズンバターを勧めて、モモコにもなにか食べるように促す。


 しかしモモコは食事には目もくれず、スマートフォンを取り出した。今からここで、高田課長の本心を確かめるというのだ。


「俺や東條に迷惑だ。電話は止めろ」


 向島は冷たく言い放って、グラスに口を付けている。


 酷い言い方だと窘めつつ、アオイはそんな向島の態度を心強いとも感じていた。大して長居している訳ではないが、彼女は既に疲れて帰りたくなっている。


 アオイは空になったグラスを、カウンターへ向けて掲げた。ホマレは驚いた様子を見せたが、直ぐに笑顔に切り替える。


「だったら、チャットならいいでしょ! 待ってなさいよ、今すぐ聞いてやるんだ」


 モモコはグスグスと泣きながら、両手でスマートフォンを持って課長宛てのメッセージを打っている。彼女によれば、今日は予定がないはずだという。


 モモコが指を動かすたびに、彼女の薬指は光を拾ってテーブルにそれを投げていた。そして幸せの象徴であるはずのそれを、アオイはボンヤリと、遠くの世界のもののように眺めている。


 ウェイターが、何度目かのグラスの運んできた。アオイはそれを受け取って、モモコを眺めながら口へ運ぶ。


 いつの間にか空になっていたグラスに気付いて、アオイはそれがテーブルに光を落としていることに気づいた。ダイヤもグラスも、テーブルに落とす光の強さは変わらないのだと、アオイはそれを可笑しく思う。


 また別の飲み物が欲しくなってカウンターの方を見ると、アオイは向島に腕を引かれた。彼はアオイの前に別のグラスを置いて、飲めと言う。中身は水だった。


 モモコが遠くで泣いているのを聞きながら、アオイは水を飲み干す。


 アオイには、相手が本当は不倫関係を終わらせる気がないと分かっていて、それでも縋るモモコの気持ちが分からない。そんな関係は、自分を不幸にするだけだ。


 モモコは着信がきたと言っては、画面を向島に突き付けている。相手の言葉に一喜一憂する姿は、まるで子どものようだ。


 どれだけ自分を不幸にすると分かっていても、愛することを止められないということが、アオイには分からなかった。モモコは幸せを遠ざけているようにも、目を背けているようにも見える。


 時として人は、内側から湧き上がる強い衝動で他人を傷つけ、自分の身を滅ぼすことがある。それが分かっていても尚、その衝動に抗うことが出来ないのは何故なのだろう。


 モモコが、遠くで泣いている。酔った彼女は支離滅裂な言葉を並べているが、それらは全て「愛してほしい」と叫んでいるようでもあった。


 アオイは無意識のうちに、淡路のことを思い出す。共に眺めた、満月の美しさ――。あの時、彼が指に乗せた大粒のパールは、今も記憶の中で淡く輝いている。


 アオイは段々と、自分の体が心地よい浮遊感に包まれていくのを感じていた。



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