4-3 月の裏側 ⑩
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静かなことに気付いて、北上は破れた障子の隙間から縁側に目を向けた。
縁側では南城とミカンが、横になって眠っている。ガラス戸から入り込む陽の光を浴びて、南城の頬もミカンの毛もキラキラと輝いて見えた。
寝室へ行き毛布を手に戻ると、北上はそれを南城に掛けてやる。途中で見た居間の時計は、十六時を過ぎたばかり。
突然、南城の顔の傍に身を寄せていたミカンが、耳をピクッと動かした。だが彼女は、起きた訳ではないようだ。スーッと長く鼻息を吐いて、安心したような顔をして、まるで人間のようにミカンは眠っている。夢でも見ているのかもしれない。
北上は、縁側と居間とを仕切る障子戸の傍に腰を下ろした。
一人と一匹は、スヤスヤと寝ている。南城の右手には、ミカンをあやしていた玩具が握られたままだ。
無意識に、北上はスマートフォンを手にして二人に向けていた。しかし彼はカメラを起動させることなく、それを出来るだけ遠くに置く。
写真を撮れば、いつまでもこの光景は手元に残る。しかしそれは、南城からの信頼を裏切ることのように思えた。寝ている間に勝手に写真を撮られていたら、きっと気持ちが悪いだろう。
人生は、一瞬で変わる。北上はそれを、強く感じている。
人生は、一瞬で変わるのだ。それも、劇的に。
南城が居なければ、北上がミカンを拾うことはなかった。そしてミカンがいなければ、南城との今の関係はなかっただろう。人生は些細なことを切っ掛けにして、ほんの一瞬で変わっていく。そして全ての物事は、確かな繋がりを持っている。
この一か月、北上はあらゆる変化を受け止めてきた。それは長く独りでいた彼にとって煩わしく感じることも少なくなかったが、変化せざるを得ない状況が良い方向へ導いてくれたようでもあった。
仕事に恵まれ、収入に恵まれ、住むところが確保されている生活は、それなりに快適ではあったのだ。一人のことなら、自分次第でどうとでもなった。
ただ今は、小さな同居人に振り回され、予期せぬ変更が生じることも少なくない。要らぬ心配も、余計な手間も、些細な傷も増えている。だが不思議と、北上はそれらを幸せだと感じているのだ。
幸せだと感じる度に、北上はそれを怖いとも思った。人生は、一瞬で変わる。手に入れるのも、失うのも一瞬だ。
北上は、親の顔を知らない。彼は施設で育ったが、周りとは上手く馴染めなかった。
北上タツキとしての人生が始まったのは、ほんの些細な偶然からだ。東京で数学教師をしていた「じいさん」に貰われなければ、空手を始めなければ、今の彼は無かった。
じいさんは、時に優しく、時に厳しく北上と接した。そうして北上に多くのものを残してくれたが、ある日突然、彼を一人置いて旅立った。人は、病には勝てない。
ううんと、南城の口元が小さくなにか呟いた。
北上はそれを見つめながら、時が止まることを願っている。
人生は、一瞬で、劇的に変わる。そして一瞬で手にしたものは、一瞬で掌から零れていく。だから北上は、いつか来るかもしれない終わりを嘆き恐れていた。
手に入れた幸せの数々。それを一つも溢すのが嫌で、体いっぱいに必死で抱え混んでいる。しかし心は、もう次を求めるのだ。その癖、失くした時のことを考えて、もう沢山だと遠ざけようともする。そんな自分の有り様を、北上は笑い飛ばすことも出来ない。
「……うん。滝……」
南城の寝言に気づいて、北上は口元を緩ませた。
「うん……分かってる……」
一体なんの夢を見ているのだろうと、北上は南城がモゴモゴと口元を動かすのを微笑ましく思った。
炬燵机に手を伸ばして、北上は湯呑を持ち上げる。緑茶は、もうすっかり冷めていた。
「見合いだろう? ……うん。なんでもいい……」
北上の手から湯呑が抜けて、それは畳の上に転がった。飛沫が掛かったのか、ミカンが跳び起きて、それに驚いた南城が目を覚ます。
「……北上? どうした? ……ああ、溢したのか。待ってろ。えっと雑巾……」
目元を擦りながら、南城は北上の脇を通って台所へと駆けていく。
ミカンは北上に背を向けて、尻尾で床をパシンッパシンッと叩いている。怒っているのだ。
「……すまない」
言いながらも、北上の心はそこになかった。
人生は、変わる。一瞬で、それも劇的に。
北上はただ、虚空の一点を見つめていた。




