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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
Another

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205/408

4-3 月の裏側 ①

 三、月の裏側


 二〇×二年 二月 十五日 火曜日


 七時。

 ヒカルと淡路は、洗面所で隣り合って歯を磨いていた。一方は普段通りの笑顔で、もう一方は青白い顔をしている。


 昨夜、皆はリリカの作った自称オムライスとサラダ、それにチョコレートと称した炭の塊を食べたのだが、これがヒカルの胃に今だダメージを与え続けているのだ。


 淡路は先に胃薬を服用していたため大きなダメージはなく、アオイは元々の体質もあって大事には至らなかった。ノーガードで挑んだのは、ヒカルだけだ。


「……ほんとに、なんともないんですか?」


「そうだね、なんとか」


 先に歯磨きを終えた淡路が、笑顔で頷いている。彼は料理中のリリカの姿から察して先に薬を服用することが出来たのだが、前情報が無くては危なかったと考えていた。


「アオ姉も平気そうだったなあ……」


 歯ブラシを咥えたまま、ヒカルは遠くを見ている。昨日はポッチーゲームに釣られたばかりに、酷い目に合ってしまった。しかもポッチーを買ってきたは良いが、結局は体調不良で何も出来ず終いという情けない結末を迎えている。


(自分は一口も食べないんだもんな。……ある意味、食べなくて良かったのか……)


 卵が足りなくなったので、リリカはオムライスではなくインスタントのお茶漬けを食べていた。そのため彼女は、自分の手料理が壊滅的な味であることを知らない。だが結果として、リリカの笑顔とお腹は守られたのだった。


 お先にと声を掛けて、淡路は洗面所を出て行く。


 それから少しして、今度はアオイが洗面所に顔を出した。彼女は起きたばかりのようで、髪はボサボサで目もしっかり開いていない。


「……おはよ」


 寝言のようにも聞こえる呟きの後、アオイはヘアバンドをつけて顔を洗い始めた。


 その後姿を見ながら、ヒカルは無言で歯を磨く。


 ヒカルはまだ、姉の口からは婚約について聞かされていなかった。これまで二人になる機会を探ってきたが、中々その機会は訪れなかったのだ。


 ヒカルは、キリキリ痛む腹を抑えた。


 アオイがタオルで顔を抑える横で、一声かけて、ヒカルは口を濯ぐ。それから自分の歯ブラシを棚に戻すと、彼は後ろからアオイに抱きついた。


 タオルからそっと顔を離して、アオイは鏡を見る。そこには、自分の肩に頭を乗せた弟の姿があった。


 昔からヒカルは、酷く落ち込んだ後はこうしてアオイに甘えることがあった。といってもそれは、小学生までのことだ。あの頃は腰の辺りにあったはずの弟の頭が、今は自分の背よりも少し高い位置にある。


「アオ姉。一個だけ、教えて」


 ヒカルは息を飲んで、それからさらに間を開けて、ようやく言葉を紡いだ。


「婚約は、本当に好きだから? ……それとも、別の理由?」


 ヒカルはアオイの肩に頭を置いて下を向き、ぎゅっと目を閉じている。


 アオイはヒカルの腕に力が籠るのを感じて、それにそっと手を添えた。


「だってさ。だって、僕を育てたり……大変なのかなって。……アオ姉。僕、もうバイト出来るよ。勉強だってちゃんと」


「やだ。お金の心配してるの? そんなんじゃないから。子どもが余計な心配しないの。……そういう言い方は、淡路にも失礼でしょ」


「子どもじゃないよ」


 ヒカルは口を尖らせる。


 アオイは手を伸ばして、ヒカルの頭を撫でた。


 ヒカルはそれに甘えたまま、ずっと目を瞑っている。


「あのねえ……こう見えても、あなたの姉さんは優秀で高級取りだし、なにも心配要らないの。大学までしっかり勉強して、社会に出て、やりたいことを見つけて。幸せになってほしいの」


「……僕だって、そうだよ」


 ヒカルの声のトーンが変わったことに気付いて、アオイは手を止めた。


 ヒカルは変わらず、目を閉じたままでいる。


「アオ姉には、幸せになってほしいんだ。世界で一番」


「ありがとう。ヒカル。……でもね、ダメ」


 顔を上げようとしたヒカルの頭を、アオイはグリグリと撫でまわした。


「その言葉は、自分のために使いなさい。先ずは、自分が幸せになるの。じゃなきゃ、周りを幸せになんて出来ないんだから。分かった? 返事は?」


「うん……。分かったよ。アオ姉」


 ヒカルは困ったような、弱ったような声で返した。彼の目元は、笑っている。


 それからヒカルはアオイから離れると、洗面所の向かいの自室に戻っていった。


 一人になって、アオイは鏡の中の女と向き合う。


 嫌な女だと、アオイは心の中で呟いた。幾つもの嘘を重ねて、誰か何かの犠牲の上に立つ自分を、アオイは好きにはなれない。


 同じ頃、ヒカルは自室のベッドに転がって天井を眺めていた。耳には、先程のアオイの声がまだ残っている。


(好きだとは、言わないんだね。アオ姉)


 ヒカルには、それが気掛かりだった。

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