4-2 愛のかたまり ⑩
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北上が玄関を開けるなり、隣の台所からはサビ柄の子猫が飛び出してきた。ミカンだ。ミカンは一月の半ば頃に北上に拾われ、今は生後四か月程。毎日元気いっぱいに遊びまわり、すくすくと成長している。
北上が手にしていた革鞄を床に置くと、ミカンはその角に顔を寄せて、目を閉じて匂いを嗅いだ。外の世界の匂いを、嗅ぎ取っているのかもしれない。
ただいまと言って北上が頭をワシワシ撫でると、ミカンは満足そうにした。実際にそうしている訳ではないが、口元が笑っているように見えるのだ。
「おかえり。お邪魔してるぞ」
台所の玉砂利の暖簾の間から、長身で黒髪の女が顔を出す。南城サクラだ。
ただいまと、北上は返事する。彼は玄関に靴があるのを見て、南城が家に来ていることは分かっていた。
北上がミカンを拾った日から、南城は頻繁に北上の家に上がり込んでいる。合鍵があるので、家主が居ない時でもミカンに会いに来ているのだ。
「北上、手を洗ってこい。早くな。直ぐ来い」
南城はミカンを抱き上げて、居間の方へと消えていく。
北上は無言で頷いて、洗面所へ向かった。
洗面所の窓の傍に置かれた時計の針は、十九時四十分を指している。
北上は手を洗いながら、洗面台のガラスが綺麗になっているように思った。あまり気にしていなかったが、床の埃も見当たらない。
「南城。すまない。掃除を」
声を掛けながら北上が居間に入ると、南城は持ってきたタッパーから皿におかずを移しているところだった。
「夕飯も」
ジャケットを脱いで鴨居に引っ掻けていたハンガーに掛けながら、北上はポロポロと言葉を口にしている。元々口下手なのもあったが、伝えようと思っている内容に実際の発話が追いついていないのだ。
「気にするな。掃除は、ミカンの為だ。それに、夕飯は……滝が煩くてな」
南城は苦笑している。彼女が笑うと、くるくると巻いたり跳ねたりしている後髪がフワッと揺れた。
南城の傍ではミカンが、どうにかしてお零れを貰おうと甘い声を出している。
滝というのは、南城家の家政婦の一人だ。七十近い年齢だが活力に満ちた人で、彼女は北上と南城とを何とかして恋仲にさせようと企んでいる。こうして夕飯を持たせるのも、その計画の一つなのだ。
「ちゃんと着替えてこい。皴になるぞ」
北上は炬燵に入ろうと身を屈めたのだが、南城に勧められて思い直し、隣の寝室へ向かった。
寝室の隅に置かれた仏壇。そこに置かれた遺影の老人に帰宅を告げて、北上はそれも磨かれた後だと気付く。いつやってきたか分からないが、南城は家中を掃除しているようだ。
北上はそっと、押入れの天袋に意識を向けた。そこには黒のスラックスに同色のシャツ、これまた同色のサテン生地のベストとガスマスクが隠されている。それは彼が、インドラと呼ばれるハンターである時に身に着けているものだ。
南城は家中をピカピカに掃除していたが、流石の彼女も天袋までは気が回らないようだった。
着替えて居間に戻ると、忘れる前にと、北上は増田から託された紙袋を南城へ渡す。
南城は首を傾げていたが、中を確認すると理解した様子を見せた。どうやらオンライン授業の期間、授業の無くなった教員はレポートを作成することになっているらしい。これは、その資料ということだった。
「増田さんは、親切だからな」
南城が言うのを、北上は聞こえないフリをした。
北上が炬燵に入って人心地付くと、南城が彼の前に箱を置く。それはゴールドのラッピングがされた長方形の薄い箱で、表面には駅前のデパートで見るような洋菓子屋の名前が印字されていた。
「滝がな、『お世話になっているのですから、お渡しなさい! 感謝の気持ちですから!』と煩くて。北上は、甘いものは食べないと言ったのに。ま、とにかく、やる。ちゃんと、三倍で返せよ?」
南城は、子どものように笑った。
流石の北上もチョコレートだと察して、頭を下げる。
「世話になっているのは、俺の方だ」
まさか南城から貰えるとは思っていなかったので、北上は静かに喜んでいた。バレンタインという行事があることは勿論知っているが、生まれてこの方、そういったものには縁がない人生を送ってきたのだ。
教師という職業柄、生徒から渡されることもあるのだが、北上は一貫してそれを断り続けてきた。甘いものは食べないし、教師と生徒の間には超えてはならない壁がある。
箱を見つめて、北上は口の端をほんの僅かに緩ませた。
機嫌がよいことに気付いたのか、ミカンが北上の傍に寄ってきて、一緒に箱を眺めている。少し首を傾けるその横顔には、計算し尽された可愛げがこれでもかと詰まっていた。
「……じゃ、そういうことで」
余韻に浸っていた北上の前から、南城はサッと箱を取り上げる。
北上は、視線で南城に説明を求めた。
「だってお前、甘いものは食べないだろう?」
(普段は食べない。だが、君が折角選んでくれたのだから)「食べる」
「いい、いい。無理するな。元々、自分が食べたいやつを選んだんだ」
南城はリボンを解くと、さっさと包装紙を開いてしまう。
「ほら。ミカンには、この綺麗なリボンをやるぞ~」
リボンを左右に振ってミカンを誘うと、南城はそれを部屋の隅に放った。
ミカンは目を輝かせて、リボンが落ちる方へ跳んでいく。
それから南城は、チョコレートを一つ摘まんで周りの銀紙をぺりぺりと開いた。夕飯前だが、一つ食べてしまおうと悪いことを考えたのだ。
ふと視線に気付いて、南城は北上を見る。
北上は眉間に皴を寄せていたが、怒っているというよりは、悲しんでいるように見えた。そのあまりに僅かな違いに気付くのは、南城くらいだったが。
「……あー。北上? ほら」
仕方がないなと、南城は北上の口元にそれを運ぶ。行儀の悪いことをしている自覚があったので、彼女はそれを咎められているようにも思えていた。
北上は驚いて思考が止まりかけたが、辛うじて口を開く。苦手で食べないチョコレートの中からは、彼好みの日本酒が溢れ出てきた。ピリッとした辛口のそれは、チョコレートの甘ったるさを上手く中和している。
「食べたんだから、ちゃんと十倍返しだぞ?」
さり気なく上乗せして要求し、南城は笑った。それから彼女も、別のチョコレートを摘まんで口に放る。
その仕草を、北上は見つめている。
チョコレートの中には、全国各地の地酒がタップリ閉じ込められていた。甘さが控えめなのもあって、大人に人気の商品だ。
美味いと、北上はしっかり口にした。だから自分が食べると、言外に主張している。
南城は箱に入っていた品書きを見ながら、日本酒の種類を読み上げていた。彼女の耳には、既に北上の言葉は届いていない。
リボンを咥えたミカンが戻ってきて、北上の腕の下を潜って膝に乗り、これで遊べと主張している。
北上は南城に目を向けたまま、ミカンの頭をワシワシ撫でた。
ミカンは自分を見ない北上に、怒りを覚える。日中は一人ぼっちで留守番させている癖に、帰宅後も遊んでくれないのかと、彼女の真ん丸の目は北上を責めていた。
「南城、怪我をしたのか?」
北上の視線は、南城の手首に向けられていた。
南城は袖をぐいと引っ張って、両手首を隠す。そこには、痣が出来ている。
「……稽古で、少し」
「珍しいな」
北上が痛むかと尋ねると、南城は首を横に振る。
そんなことよりと、南城はもう一つチョコレートを口に放った。
「うん。美味しいな、コレ。やはり、私の目に狂いはないな」
南城からは、果実のような華やかな香りが漂っている。
北上は、そっと箱に手を伸ばした。このままでは、全て南城が食べてしまう。
すると、コツンと、北上の肘がなにかに触れた。彼が目をやると、肘の下にはミカンがいる。
ミカンは両耳をグイッと後ろに向けて、見たことの無いような顔つきをしていた。遊んでくれないばかりか、酷いことをされたと思っているのだ。
すまんなと、北上はミカンの頭を撫でてやる。
気をつけろと、南城が北上を咎めている。
頭をグリグリと撫でまわされながら、ミカンは尚も怖い顔をしていた。




