4-2 愛のかたまり ⑨
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マンションの駐車場で車を降りて、淡路は自宅へと向かって歩き出した。ここのところ働き詰めだが、それに不満はない。体は疲れていても、忙しくしている方が心は楽なのだ。
時刻は、十九時十五分を過ぎている。
寒空の下、淡路は背中に痛みが走るのを覚えて、僅かに口元を歪ませた。先日の仕事で負った怪我が、時折傷む。
家に近づいたところで、淡路は前方からヒカルが歩いてくることに気付いた。淡路が手を挙げると、ヒカルも彼に気付いた様子を見せる。
婚約すると告げた直後こそ不満を隠そうとしなかったヒカルだが、今ではすっかり以前と同じ様子を見せていた。元々の優しさと素直な性格とが、彼にそうさせているのかもしれない。
淡路が何処へ行くのか尋ねると、ヒカルは静かに頷いた。
「ちょっと、スーパーまでポッチーを」
「ポッチー?」
「はい。買い占めてきます」
強い決意を滲ませた口調でそう言うと、ヒカルは夜道に消えていく。
(……リリカちゃんかな?)
仲のよい若いカップルを微笑ましく思いながら、淡路は家のドアを開いた。
焦げ臭い家の中をリビングへ向かうと、淡路の目にはキッチンの惨状とフライパンの前で格闘しているリリカの姿が映る。
「リリカちゃん。ただいま」
「淡路さん! おかえりなさい。……あ! まだ見ちゃダメ! あっち行ってて!」
(ああ、そういう……)
色々と察して、淡路はキッチンを後にすると自室へ戻った。
自室の中。ドアにもたれると、淡路はズルズルと床に崩れる。コートのポケットには、能登から貰ったチョコレートが入っていた。
心の底から嬉しそうに笑う能登の顔を思い出して、淡路は溜息を漏らす。
キッチンからは、料理中とは思えない奇妙な音が響いている。
それから十五分ほどして、今度はアオイが帰宅した。
アオイはリビングのドアを開けるなり、キッチンとリリカの姿を見て色々と察する。
「ただいま。リリちゃん。はい、これお土産。みんなで」
「アオ姉! おかえり。ありがとう!」
フライパンから離れられないリリカに、アオイはチョコプリンだと伝えて冷蔵庫を開いた。
冷蔵庫の中は、黒い塊によって占拠されている。それを端へ避けてスペースを空けると、アオイは半ば無理矢理プリンの入った箱をねじ込んだ。
「そういえば、ヒカルは?」
「今ね、ポッチー買いに行ってるの。淡路さんは、お部屋じゃない? 待っててね、もうすぐ全員分出来るから!」
リリカの弾けるような笑顔に、アオイは優しく微笑み返す。
(あ、これはちょっと、覚悟しなきゃかな~)
戦場のように荒れ放題のキッチンを見て、アオイは心の中で呟いた。皿に乗っている塊は、恐らくチキンライスだろう。弟はきっと欲望に負けて、キッチンの防衛を諦めたのだ。
着替えてくると告げて、アオイはリビングの隣の自室へ。
中に入って後ろ手にドアを閉めると、アオイはベッドの上になにか置かれていることに気付いた。
傍へ寄って、それからアオイは足元に風を感じる。
「――今の仕事がダメになったら、鍵屋でもしたら?」
後ろから抱かれて、アオイは笑った。鍵が掛かっていた筈のテラス側のガラス戸から、淡路はいつの間にか入り込んでいる。相変わらず、音もなく。
ベッドには、リボンを結んだバラが一輪、そっと置かれている。
何時置いたのかと、アオイは尋ねた。
淡路は、内緒だと言う。
「花なら、受け取ってもらえると思って」
アオイがキザだと言うと、淡路は笑った。彼も、同じことを思っていたのだ。二人はキッチンにいるリリカに聞こえないように、小声で言葉を交わしている。
アオイは渡すものがあると言って淡路の腕から離れると、戸の傍に置かれていた紙袋から中身を取り出した。それはリボンの掛かった長方形の箱で、中にはネクタイが誇らしげに詰められている。
「結局、ネイビー。無地だし」
他に思いつかなかったのだと、アオイは困ったように笑う。
淡路は、ネクタイとアオイとを交互に見た。自分へのプレゼントを選ぶために好きな色を尋ねていたのだと気付いて、彼はそれを嬉しく思う。
「クリスマスに貰ったから、そのお礼。あなた、要らないっていうけど」
「嬉しいです。着けて貰えませんか?」
「私、結んだことない」
「大丈夫。教えますよ」
淡路はベッドに腰かけて着けていたネクタイを外し、今度はアオイのネクタイを首元に掛ける。
アオイは淡路が言うのに合わせて、ネクタイを結び始めた。
「立った方が、やりやすいんじゃない?」
「そんなことないですよ」
淡路は、アオイの顔を見上げている。
今日がなんの日で、アオイが仕事を早く切り上げた後に何処へ向かったのか、淡路は知っていた。それを嫉妬する気持ちもあったが、今となってはどうでもよく思えている。
出来たと、アオイが言った。
シンプルなネイビーのタイは、淡路の胸元で少しよれて浮いている。それを両手で整えて、淡路はアオイに微笑む。それは、普段とは全く違う表情だ。
アオイはその笑顔の裏に、また別の感情を見たように思った。
淡路はアオイを引き寄せて、彼女に額を寄せる。
「……甘えてるの?」
そうですと、淡路は頷く。彼は、離れようとしない。
以前にもこんなことがあったと思い出して、アオイは淡路の肩に手を添えた。
「……能登のチョコ、本当は……嬉しかったんですよ」
淡路は、呟く。
能登の純粋な好意に、偽りの表情でしか返せない自分。能登の心の綺麗さによって、自分の汚れ切った心が明らかになるように感じる。そんな自分を、淡路は心の底から嫌悪していた。
アオイは、両手で淡路を抱く。顔こそ見えなかったが、彼女は彼がどんな表情をしているか分かるように思った。
淡路は今、本当の顔で、本当の言葉を口にしている。本当の自分でいる時、淡路は目の奥に隠しきれない憂いを湛えていた。これまでに見聞きしてきた様々なことが、彼にそうさせているのかもしれない。
玄関の方から、音がする。ヒカルが戻ったようだ。
キッチンからは、相変わらず不思議な音が聞こえている。
煙のような臭いと、バタバタと忙しく動き回る音。
「愛しています――」
淡路は、アオイの耳元で囁く。
キッチンから漏れてくる、ヒカルとリリカの話し声。
髪の擦れる音と、耳に響く鼓動。
「……知ってる」
アオイは、目を閉じて呟いた。




