1-2 ハート ①
二、ハート
二〇×一年 十月五日 火曜日
「聞いてよ、ヒカルぅ!」
姉がわんわん泣きながら飛び込んで来た時、東條ヒカルはだらしなく大口を開けて、まだ夢の中にいた。
「もう! 聞いてってばぁ!」
果たして姉は酔っているのか、徹夜明けでハイなのか。目を擦りながら上半身を起こすうち、ヒカルはそのどちらも正解であることを知る。
「アオ姉、酒臭いよ」
泣きじゃくる姉の顔を袖口で拭いてやりながら、ヒカルは壁の時計に目をやった。
時刻は、六時になろうというところ。
昨晩、深夜に仕事を終えたアオイは、自棄になってそのまま行きつけの飲み屋で夜を明かしたのだった。
「だってぇ」
アオイは年甲斐もなく、ぐすぐすと子供のように泣く。そんな彼女も、店で酒を飲んでいる時は強気で管を巻いていた。だが、家のドアが近づくにつれて気弱な部分が姿を見せ始め、玄関で弟の靴を眺めた途端に感情が溢れて止まらなくなったのだ。
アオイの背中をさすってやりながら、ヒカルはベッドの上に座り直し、テレビのスイッチを入れる。
チャンネルは、選ぶ必要がなかった。どこの放送局も、今朝のニュースは横並びで同じ映像を流している。
「……ナザーの被害を食い止めたのは、またしても謎のハンターです!」
キャスターの陽気な声が耳に飛び込むと、アオイの表情は絶望で一杯になった。
平和な日常を食い破るように、いつからか姿を現すようになった謎の怪物、アナザー。
アオイは、そのアナザーの被害を食い止めるために設立された、対策組織の一員である。彼らは普段より銃の携帯を許可され、市民の平和を守るために日夜闘い続けているのだ。
しかしここ半年程は、アオイがアナザーを退治できたことは一度として無かった。アオイ達が現場に駆け付けた時には、いつも謎の少年――それは巷でハンターと呼ばれている――がアナザーを退治しているからだ。
「課長は嫌味ばっかだし、後片付けばっかだし、もう、もう……」
ボロボロと涙を溢しながら、アオイは肩を震わせている。
ヒカルは姉を宥めて入れ替わりでベッドに寝かせると、急いでキッチンに行き、水の入ったグラスを手に戻った。そうして慣れた手つきで姉に水を飲ませ、ジャケットを脱がせてネクタイを外してやる。
アオイは時々、小さく弱音を吐いていた。
やがてアオイが微睡み始めたのを見て、ヒカルは部屋を後にする。
ドアを閉じるとともに、どっと押し寄せる疲労と罪悪感。
東條ヒカルは、巷でハンターと呼ばれている少年である。普段はどこにでもいる高校生だが、一度アナザーの気配を察知すると、彼はシルバーのボディスーツに身を包み、ハンターとなってアナザーを狩るのだ。
ヒカルとアオイには、両親がいない。他の多くの孤児がそうであるように、彼らの両親も十一年前の大地震によって他界している。
当時の記憶は、朧げだ。ヒカルは、両親のことを殆ど覚えていない。ただ彼は、傍にはいつもアオイがいたことを記憶している。彼女はまるで母親のように、たった一人の弟を守り続けてきてくれたのだ。
そんな姉を騙しているのだという、罪悪感。それから逃げるように、ヒカルは目の前のバスルームに飛び込んだ。
頭から熱い湯を浴びて、雨のような水音に耳を傾ける。そうしている時、ヒカルはいつも自分を取り戻すことが出来た。
曇った鏡には、朧げな人の輪郭が映り込んでいる。ヒカルが何気なくそこにシャワーの水流を向けると、鏡には胸に大きな傷を持つ少年の姿が映り、そしてそれは直ぐに湯煙の向こうへ消えていった。
胸の傷は、数年前に事故で負ったものだ。ヒカルにとってそれは、自分が確かに生きていることの証でもある。
肌と同じ色のラテックス製のテープで傷を覆い隠すと、身なりを整えて、ヒカルはリビングへと向かった。
リビングの扉を開けるなり、インターフォンが鳴る。
時刻は、六時五十分。
インターフォンのテレビ画面には、ブロンドヘアの少女が笑顔で手を振っているのが映りこんでいた。
頭痛を覚えて、ヒカルはモニターの映像を切った。しかし直ぐに思い直して、彼は諦めた様子でドアを解錠する。
「おじゃましまーす!」
元気いっぱいな、少女の声。その少女は、名前を泉リリカといった。ヒカルとリリカは家が隣同士の、所謂幼馴染という関係だ。
腰まで届く手入れの行き届いた金髪を機嫌よく揺らしながら、リリカがリビングに現れる。彼女の目は、ヒカルのことを見ていない。
ヒカルはこれ幸いとばかりに、リビングに対面したキッチンへコソコソと足を運んだ。
「……え? 居ないじゃない」
辺りを見まわして、リリカは手にしていた通学カバンを床に放る。
「ねえ、ちょっと、淡路さん居ないじゃない! どういうこと?」
「知らないよ、そんなの。第一、あの人、家族じゃないし。大体、うちのカギ持ってるだろ。自分で開けてくれよ」
「何ぶつぶつ言ってんの? 全然聞こえないんだけど!」
リリカにキッチンへ押しかけられて、ヒカルは目を閉じて精神統一する。この状態の時は、とにかく時間が過ぎるのを待つしかない。
「ねえ! 聞いてるの?」
頬を引っ張られながら、ヒカルは心の中で必死に別のことを考えている。今のリリカには、何を言っても効果がないと分かっているからだ。
泉リリカはアイドル顔負けの容姿の持ち主で、ネットでは「リリィ」の名で知られる、ちょっとした有名人である。日本人離れした見た目は、両親が共にクウォーターであるという出自のためだ。
リリカのSNSは同世代の女子から支持を受け、ファッションから流行りの店、家での過ごし方から美容テクニックまで、様々な内容で高評価を得ていた。投稿しているのは写真と十五秒ほどの動画がメインで、加工は極力しないというのが彼女のポリシーである。
写真のリリカはいつも優しく頬笑んでいるが、ヒカルといる時は別人のようだった。般若のような表情から寝起きの間抜け顔まで、リリカは表情をコロコロとよく変える。今朝のこの怒り顔も、SNS上では決して見せたことのない表情だ。
「ちょっとは、なにか、言いなさいよ!」
つまんだヒカルの頬を上下左右に引っ張りながら、リリカはいう。
「ぼふ、べんほお、ふくるはら」
「なに? 全然わかんない!」
弁当を作るため、リリカを半ば引きずりながら、ヒカルは冷蔵庫に手を掛けた。
直ぐに何をしようとしているか察して、リリカはパッと手を放す。
「もう、早く言ってよ。ねえねえ、今日はハートがいい!」
自分とヒカルの弁当箱を食洗器から取り出すと、リリカはご機嫌な様子で調理台に並べだした。リリカが毎朝アップしている「タイトル:今日のお弁当」は、全てヒカルが作成しているのだ。
絶対にいつかネタバレしてやろうと、もう何度目か分からない恨み節を心の中に留めつつ、ヒカルは手早く調理を始めた。
卵を三つ取り出して、右手で二つ、左手で一つを同時に割る。白だしを小さじ二に対して、水を大さじ二。今日は甘い卵焼きの気分ではないので、砂糖は入れない。
卵をササッと混ぜると、今度は卵焼き用のフライパンを火にかけて、温まったところで油を垂らし、キッチンペーパーで四隅まで油をいきわたらせる。
ヒカルは溶かした卵をフライパンに少量流し込み、固まったところで菜箸でクルクルと手前に巻いていく。空いたスペースにさらに少量流し込み、同じ要領でどんどん卵を巻いていくと、やがてふっくらとした大きな卵焼きが出来上がった。
皿に移して冷ましている間に、ヒカルは他のおかずに取り掛かるべく冷蔵庫を覗き込む。
昨日の残りの肉団子と、自然解凍で食べられるブロッコリー。プチトマトと、作り置きの小松菜のお浸し。微妙な隙間は、冷凍食品に頼る。冷凍していたご飯をレンジにかけながら、ヒカルはテキパキとバランスよくおかずを弁当箱に詰めていく。
「あれ、なんだっけ?」
「ハート!」
ああそうだったと焦りながら、ヒカルは崩さないように注意して、卵焼きにそっと包丁を入れた。切り分けた一欠けを横に倒して斜めに切り、切り口同士を半回転して合わせると、それらしいものが出来上がった。
弁当箱の空いていた部分に卵焼きを詰めて、カラフルなピックを適当に飾り付ける。
弁当箱を覗き込むと、リリカが声を上げて喜んだ。メニューは地味でとても写真映えするようなものではないのだが、弁当に関しては、リリカはゴテゴテしたデコレーションよりもシンプルなものを喜ぶ。
普段リリカにどれだけ傍若無人な態度をとられているヒカルでも、彼女のこういった姿を見てしまうと、どうにも憎み切れずに笑ってしまう。
使ったフライパンや菜箸、包丁を洗って所定の位置に戻すと、ヒカルはカバンを取りに自室に戻った。
「うーん……課長のバカあ」
ヒカルのベッドの上で、アオイは漫画のような寝言を吐いている。
起こさないようにそっと部屋に足を踏み入れると、ヒカルは通学カバンを手にリビングへ戻った。
「リリカ、水筒は?」
「持ってきてる~」
そうじゃない、と心の中で思いつつ、ヒカルはリリカのタンブラーを受け取るとキッチンへ向かった。
冷蔵庫から取り出した麦茶を自分の水筒とタンブラーに注いで準備しながら、ヒカルはブレッドケースから取り出したロールパンを齧って簡単な朝食を済ませる。自分の分だけ用意するというのが億劫で、彼は平日の朝は適当に済ませることが多い。
「リリカ。僕、もう出るよ」
ソファの上でスマートフォンと睨めっこしているリリカに声を掛けると、ヒカルは弁当を詰めたカバンを手に玄関へと向かった。
「え! 待ってよ。もう」
床に放っていたカバンを拾い上げると、リリカはヒカルの後を追う。
「行ってきまーす!」
声を揃えてそう言うと、ドアを出たところから、二人はエレベーターまでいつものように競争し始める。
途中ですれ違った年配の女性が、二人の後ろ姿を微笑ましそうに見送った。小さな頃は手を繋いでいたものだけれど――そう過去を懐かしみつつ、時間の流れの早さを思う。
最初にエレベーターまで到着したリリカが、笑顔で昇降ボタンに手を触れた。
「ねえ、エレベーターって、キャンセルできるの知ってる?」
「それ、前も言ってたよ」
通学カバンを肩に掛けなおしつつ、ヒカルはエレベーターの扉に映る自分の姿に目を向けた。
赤毛は生まれつきで、体の丈夫さは医者のお墨付き。いつのことだったかもう定かではないが、マンションの階段で遊んでいてリリカと共に落ちたことがあった。その際、リリカを庇って下になったヒカルの体は、奇跡的に擦り傷だけで済んだのだ。
三階という低層からの落下だったこと、植込みの上に落ちたこと、植え込みから転がり落ちた先が土の上だったこと――大人たちは口々に奇跡の理由を噂し合ったが、当のヒカルには何も驚きはなかった。
むしろ、この程度の高さでは怪我などするわけがないという、謎の自信があったくらいである。
ただ、心配して泣きじゃくるアオイの顔を思い出すと、ヒカルには今でも罪悪感がこみあげるのだが。
「なんか、また、背が伸びた?」
隣に立って、リリカが軽く背伸びする。一六〇センチのリリカは、十六歳の女子としては平均的な身長といえるだろう。
「アオ姉も背が高いし、スタイルいいもんね。ヒカルも、大きくなるのかな」
急に寂しげな表情を見せられてヒカルが驚いていると、その視線に気付いたのか、リリカが背伸びしてヒカルの額を指で弾いた。
「生意気!」
「なんだよ、もう。そんなところ見られたら、嫌われるよ?」
額を手で擦りながら、ヒカルは精一杯の意地悪を口にしてみせる。
リリカは横顔で笑って、階段へ向けて走り出した。
「全然来ないし、走っちゃお!」
「いつもじゃんか」
仕方ないなと溢して、ヒカルも後を追う。
打ちっ放しのコンクリート塀に囲まれた、ジグザグに入り組んだレンガ畳の道と階段。斜面の傾斜を利用して建てられた低層のマンションは、バス停のある裏手の道から見るとまるで大きな箱のようにも見える不思議な造りをしていた。
「私の勝ち!」
「こらこら。飛び出さない」
開いた扉の先に立つ男性が、衝突しかけたリリカの肩を支えた。
声ですぐに相手を察したリリカが、息を弾ませ、ぱっと笑顔を見せる。
「淡路さん!」
「おはよう。二人とも、元気だね。いいなあ、若いって」
黒いスーツの上にネイビーのコートを羽織った長身の男は、淡路といった。アオイの部下である。
「おはようございます。淡路さん。姉は休んでいると思いますので、お引き取りください」
淡路の顔をまっすぐ見据えて、ヒカルは言う。その表情は、冷たい。
「ええ。冷たいなあ。未来のお兄さんなんだけどな、僕」
「あなたが、勝手に言ってるだけですよね。姉は、迷惑していますので」
「アオイさん、素直じゃないところがあるからね」
「迷惑してます。とにかく、僕が居ない時に家に上がらないでください。絶対に」
どこまでも淡々と言葉を吐くヒカルに、リリカは少し呆れた様子を見せた。
一見すると、ヒカルはシスコンのように見えるかもしれない。だが彼のそんな行動には、ある訳があった。
淡路は、自衛官上がりという経歴にふさわしく、鍛え抜かれた体躯と精神力の持ち主である。そんな彼のもう一つの姿は、アオイの熱烈なファンだった。
淡路はアオイの周りをコソコソと付け回っていたのだが、それに気付いた彼女によって取り押さえられている。しかし警察に突き出される寸前で、アオイの突然の思い付きから彼女の部下として特務課で働くことになったのだ。
それまでの詳細な経緯は知らされていないが、ヒカルは未だにアオイの考えが理解できずにいる。ヒカルにしてみれば、淡路の行動は、まるでストーカーのように思えたからだ。
「分かってるよ。君がいない時に勝手に家には上がらないし、アオイさんが困るようなことはしない。仕事柄、警察沙汰は困る。それに、アオイさんに嫌われたら生きていけないからね」
「姉は、嫌いだと思いますけど」
「アオイさん、素直じゃないところがあるからね」
笑顔を見せる淡路に苛立ちも呆れも抱いて、ヒカルは頭痛を覚えた。
淡路は人当りもよく物腰も柔らかで、一見すると理想的な好青年である。
しかしアオイのこととなると中々に頑固で、自分の信じたものを疑おうとせず、全ての物事をポジティブに捻じ曲げて捉えてしまう。アオイの反応の全て、発せられる言葉の全てが、淡路にとっては自分に好意を伝えるものに変換されるのである。
「大丈夫だよ。本当に、君が心配するようなことは何もないよ。今日だって、頼まれていた資料を届けに来ただけだからね。それも、ドアポストに入れて直ぐに帰ることになっているから」
「不用心じゃないですか?」
「予め時間を決めてあるんだよ。アオイさんが直ぐに確認できるように。……という訳だから、通して貰ってもいいかな?」
淡路は、微笑んでいる。
非番の日に自宅で確認が必要な程、仕事が詰まっているのだろうか。
そもそも重要な資料を、自宅に持ち帰って良いのだろうか。
ヒカルはそう思ったが、今朝のアオイの乱れ具合を思い出して浮かんだ疑問を打ち消した。アオイの仕事が忙しい事のその一端は、自分にもある筈だと考えたのだ。
何より、淡路がエントランスへ入っているということは、すでにアオイと連絡が付いているということなのだろう。
渋々扉の前から退いて淡路を見送ると、ヒカルは溜息を洩らした。
姉を困らせたい訳ではないのに、自分の行動が姉の悲しみに繋がっているという事実。誰かを一人救う度、姉を後ろから撃つような苦々しさがヒカルの胸に湧く。
「――ねえ。ちょっと、聞いてる?」
リリカの声で、ヒカルは我に返った。
リリカが、スマートフォンの画面をヒカルの顔に突き付ける。表示されている時刻は、いつものバスの発車時間が迫っていた。
バス停まで競争ねと、リリカが笑う。
マンションのエントランスを抜けると、ヒカルの目には太陽の柔らかな光が映り込んだ。