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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
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4-2 愛のかたまり ④



 十四時。


 数学科準備室の隅に腰かけて、北上はノートパソコンと向き合っていた。急ぎの仕事があるのだが、職員室では作業が終わらないと判断してここへ逃げてきたのだ。


 明らかに忙しく仕事をしている人間に向かって、「今、暇ですか?」と尋ねる人間の多さといったら――。


 準備室の扉の前には長机が畳まれた状態で積まれていて、その前には資料の詰まった棚が置かれ、簡単なバリケードになっている。普段ならばそこまでする必要はないのだが、今日の北上には何をしてでも侵入を阻止したい相手がいた。


「きーたーがーみーせーんせー!」


 遠くから聞こえる悪魔の声で、北上は手を止める。しかし扉の前のバリケードを確認して、彼は作業に戻った。終わるまでは、ここから出ないと決めている。


「北上センセ? いるー?」


 バンバンと、ドアを叩く音。ノックというより、嵐のようだ。


 北上が無視して仕事を続けていると、ドアノブがガチャガチャと音を立て始めた。


 準備室は、内側から鍵を掛けることが出来ないようになっている。守らない者もいるが、学校のルールだ。そのため北上は、苦肉の策でバリケードを築いた。それは相当な重さがあるため、外から押された程度ではビクともしない。


 しばらくの間、悪魔はドアの外で粘っていた。しかし開かないと分かると諦めたのか、ドアの外はシンと静かになる。


(我ながら、子供じみたことをしてしまった)


 北上は心の中で呟いたが、そこに反省は含まれていなかった。悪魔相手に、人の心を持ってはいけないのだ。


「あ! 南城ちゃん!」


 ドアの外から、再び悪魔の声。


 北上は一瞬だけ意識を外に向けたが、直ぐに仕事に戻った。南城は、体育教師だ。今週はオンライン授業で、部活も休止となっている。その状態で、南城がわざわざ学校に来るとは思えない。これは、罠だ。


「はいはい。ダーリンでしょ? ここに居るよ~!」


「――ですから、増田先生」


 反射的に声を出してしまい、北上はハッとした。


「……みいつけたあ」


 ドアの隙間から、増田の目がこちらを覗いている。


 増田は北上が静かに鳥肌を立てている間に、バリケードを越えて部屋の中へと侵入してきた。

 

 一九三センチある北上とほとんど背丈の変わらない体育科主任の増田は、五十代とは思えない程の充実した体をジャージの下に隠している。彼女の体脂肪率は、もう何十年も十三パーセントをキープしていた。


「北上センセ。お疲れ様」


「お引き取りください」


「まだ何も言ってないじゃない! ウケル」


 アハハハと、増田は大口を開けて笑っている。彼女は一人で、廊下にも人の気配はない。やはり、南城のことは嘘だったのだ。


「でね、来月、上の人達との飲み会なんだけさあ」


「お引き取りください」


「北上センセも参加だから。ヨロシクね!」


「いえ、困ります」


「あ、そうそう。これ、また南城ちゃんに届けて貰える?」


 増田は何処からともなく紙袋を取り出して、北上の作業しているノートパソコンの隣に置いた。紙袋は和菓子屋のものだが、中身は本のようだ。


「ご自分でお願いします。仕事中です。お引き取りください」


「え? でも今日、センセの家に居るんじゃないの?」


 北上の手が、ピタリと止まる。


 確かに南城は、北上の家に頻繁にやってきていた。北上には南城がそれを誰かに話すような性格とも思えないが、やましい関係ではないのだから、聞かれれば素直に答えるのかもしれない。


「あ、やっぱり居るんだ~!」


 増田は北上の前の席に腰を下ろして、顔をニヤつかせている。


 北上はカマを掛けられたのだと理解して、眉間に深い皴を寄せた。


 増田はその皴を見て、幸せそうにしている。


 スキー合宿を切っ掛けに、増田から北上への揶揄いはヒートアップしていた。彼女は、北上と南城が交際していると思い込んでいるのだ。


 北上が辛うじて増田を許すことが出来ているのは、彼女が年長者で職場の先輩であり、且つ南城の名前を出す時は他に誰も居ない場所で揶揄うというギリギリの節度を見せてくるからだった。


「南城先生に迷惑ですから。止めてください」


 北上は心を落ち着かせながら、再び仕事に戻る。


「自分が迷惑、じゃないんだ? 惚れてるねえ。センセ」


 北上は増田の言葉を無視して、キーボードを叩いている。


 夏の照り付ける太陽の下でも、冬の寒空の下でも、北上は表情一つ変えない。彼は、台風の日ですら髪型一つ乱さない男だ。そんな北上の表情を変化させ、こんなにも困らせるのが一人の女性であることが、増田には面白く思えている。


「真っすぐで元気よねえ、南城ちゃん。初めは取っ付きにくいじゃない? ほら、高学歴高身長でお嬢様だし。でも懐くと可愛いのよね~」


 北上は増田を無視して仕事をしているが、彼にしては珍しくタイピングをミスしていた。どうにも集中しきれていない。


「いいんじゃない? 社内結婚。北上センセの年収なら、専業主婦でも大丈夫だけど。でもさあ、あの子は働きたいタイプじゃない? その点、うちは育休バッチリ取れるし! あ、北上センセも取れるよ」


 勝手に年収を予想されて、北上はそれを少し不快に思った。しかし白鷹学園の給与制度は、年齢給に役職などに応じた手当が付くものである。そのため、相手の年齢と役職とが分かっていれば、大体の年収は分かるのだった。


「そういや飲み会なんだけど」


「行きません」


「え、でもさあ、理事長が北上センセを名指しで呼んでるんだよねえ」


 北上の手が、再び止まる。モニターの向こうには、笑顔の増田。


 北上は少し前から、増田によってスキーが趣味だということにされている。そのため、同じ趣味を持つ理事長からなにかと話しかけられて困っているのだ。北上は東北の生まれでスキーは単に生活の一部であり、趣味という訳ではないのだが。


「北上センセは、自分のことに興味ないから知らないと思うけど~。センセ、何気にもう出世ルート乗ってるからねえ。上のお気に入りだヨ☆」


 バチンっと、増田はウインクした。


 そうですかと、北上は機械的に返事する。増田の言葉を信じていないうえ、彼はこの話には本当に興味がなかった。北上の中で出世という言葉は、より多忙になるという意味だ。これ以上仕事が増えては、過労死してしまう。


 増田は、北上の反応が薄いことを不満に思った。眉間に寄せていた皴は、いつの間にか綺麗に消えてしまっている。


「……ねーえ。結婚式、いつにするの? あたし、スピーチしたげよっか?」


「先生」


「だって大好きなんでしょ? 結婚しちゃえばいいじゃん! いい歳なんだし」


「増田先生」


 北上の声のトーンが変わったので、増田は渋々口を閉じた。


 北上は増田が静かになったので、再び仕事に取り掛かる。


 しばらくの間、室内にはカタカタという小さなタイピング音だけが響いていた。


「――センセのご両親はさあ、きっと素敵な人なんだろうねえ」


 増田がポツリと呟いたその言葉で、北上の視線はモニターの中で停止した。


「センセは、表情筋が死んでるからね。見た目じゃ分からないけど。でもさあ、素直じゃない? ブキッチョだけど。本当に好きなんだなあって分かるよ。だってほら、さっきから一度も、否定はしないもんね」


 増田の表情は意地悪な笑顔ではなく、温かみのあるものに変わっていた。一回りは歳の離れた北上のことが、彼女には可愛らしい後輩に思えているのだ。


 きっと素敵な両親に育てられたのだと、増田は繰り返し北上の親を褒めた。それは彼女自身が人の親という立場であるために、自然と抱いた感情だった。


 北上は軽く頭を下げて、無言で仕事を続けている。


「それじゃセンセ、ヨロシクね!」


 飲み会の日付と南城への届けものを残して、増田は上機嫌で部屋を出ていく。


 北上はそれを無言で見送って、しばらく仕事を続けていた。




 「センセのご両親はさあ、きっと素敵な人なんだろうねえ」




 増田の言葉が、北上の脳裏をよぎった。


 北上は手を止めて、モニターに映る資料の文字列に心を沈めていく。


(そんなものは、俺にも分からん)


 北上の言葉は、淡々と乾いていた。


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