4-1 月下に咲く ④
*
同時刻。
体が包まれるような心地良さを覚えて、アオイはそっと目を開いた。体は車の助手席にあって、運転席から伸びた太い腕が自分の体から離れていくのが見える。
「――ごめん、寝てた」
髪に手を伸ばそうとして、アオイは体に掛けられたブランケットに気付く。
「まだかかりそうです。着いたら起こしますよ」
運転席では淡路が、横顔で笑顔を見せている。連勤に続く連勤で同じように疲弊しているはずなのだが、彼はそれを表情に出そうとしない。
背もたれに深く体を預けて、アオイは窓の外に目を向けた。まだ週の半ばだというのに、行き交う大人の顔はどれも疲れて見える。時々通り過ぎる大学生らしき若者達は、面白味の無い顔で小さなスマートフォンの画面に囚われていた。
「……あーあ。まーた、怒られちゃった」
ワザと自虐するようにそう言って、アオイは溜息を漏らす。窓に映る赤毛の女の顔に、反省している様子はない。
「佐渡は、とばっちりでしたね」
そうねと、アオイは返す。彼女は今日、部下の佐渡と共に、課長の天下井に呼び出しを受けていた。勿論、先日の長野県のスキー場で起きた事件の報告のためである。
事件直後に文書による報告は行っていたものの、今回は正式にお説教をされてきたのだ。アオイは責任者として、佐渡は主任としてである。
事件当日、アオイは部下の淡路、能登と共に現地に居たのだが、報告書上はコアトリクエの歌を聞いて朝まで気を失っていたことになっている。
今回は県を跨いでの事件ということもあって捜査が難しく、また事件とアナザーとの因果関係を立証する証拠も乏しい。コアトリクエを初めとする天文サークルのメンバーは未だ見つからず、失踪の謎は彼の作品の価値をより高めつつある。
アオイはコアトリクエの楽曲のうち、あの曲については購入が出来ないように既に手を回していた。それはスキー場で起きた事件と関連する、重要な証拠だからである。勿論彼女がそれを世間から遠ざけたい理由は、他にあったが。
コアトリクエの歌を聞いた人々が、何故眠ってしまったのか。コアトリクエ本人が消えた今となっては、その理由は誰にも説明することは出来ない。
「君は、なんのために此処にいるのかね?」
課長の天下井の口調を真似て、アオイが言う。窓に映る女は、それに冷たい視線で応えている。
大変でしたねと、淡路の声。
アオイは口の端をきゅっと噛み締めて、それから「別に」と短く応えた。
カーラジオからは、明後日からの連休は快晴だと聞こえている。二人は仕事の予定なので、特になにも感想を抱かなかったが。
アオイは、休みが欲しいと呟いた。好きなだけ寝たいと言う。
「そうですね。……そうだ、アオイさん。次の休み辺り、買いに行きましょうか」
淡路が何の話をしているのか、アオイは直ぐに察する。
「本当に買うの?」
アオイは無意識に、膝上の自分の左手に視線を落とす。
「……前も言ったけど、本当に結婚するのは無理。だから、指輪なんて」
「僕が、贈りたいんです」
「だって、ほとんど着けられないじゃない? 職場じゃ内緒だし。貰っても、無駄になっちゃう」
「なりませんよ」
信号で車が停車して、アオイは淡路と目が合う。
ごねているアオイに、淡路は微笑みかけている。
「婚約指輪も結婚指輪も、一緒に選んで贈りたいんです。なので、諦めて少し付き合ってください。……憧れなんですよ」
車を発進させながら、淡路は呟いた。
アオイは渋々、頷いて応える。そもそも、婚約を持ちかけたのは自分なのだ。
アオイの提案と淡路の執念もあって、二人は婚約することになった。といってもそれは形だけのことで、二人の関係に大きな変化はない。家でも職場でも、二人はこれまで通りの日々を過ごしている。
違うところがあるとすれば、弟のヒカルが情緒不安定であるということくらいだろうか。
再び目を向けた窓の外には、白衣を身に纏った青年の姿があるように見えた。しかしそれは全くの幻で、アオイの単なる見間違いに過ぎなかった。
長野県の山中。白衣の青年ルシエルは、十二年前と殆ど変わらぬ姿でアオイの前に現れた。それだけも驚くべきことだが、自分を作り出した父とも呼べるその存在から告げられた自身の存在理由を思い出して、アオイは唇を噛み締める。
それからアオイは、直ぐにそれを忘れようと努めた。考えているだけで、頭がおかしくなりそうなのだ。
ラジオはインフルエンザの大流行と、ワクチン不足を伝えている。海の向こうで確認された新型のインフルエンザが、この日本でも確認されたという。
「地震に、噴火。クーデターに洪水……で、次は病気か」
「どこの国でも、色々起きていますね。まるで終末みたいだ」
冗談めかして、淡路が言う。
それを耳にして、アオイは同じように笑う気にはなれなかった。
十二年前の大地震以降、日本だけでなく世界各地で歪みが生まれつつある。時計の針は、確実に終末へ向けて動き出しているのだ。
ラジオからスキー場で起きた事件に関するニュースが聞こえ始めると、淡路がチャンネルを切り替えた。車内には聖書の朗読やヒップホップの後、落ち着いた雰囲気のジャズが流れ出す。
アオイは、横目で淡路の方を見た。淡路は変わらず前を向いていたが、アオイの視線には気付いているようだ。
再び窓の外へ顔を向けて、アオイは「ありがとう」と呟く。
淡路はそれに、笑顔で応えた。