4-1 月下に咲く ③
*
二十時半。
「――だから、救急車きてたんだ」
ソファの上でクッションを抱きかかえながら、泉リリカは納得した様子で頷いた。手入れの行き届いた長い金髪が、彼女の動きに合わせてサラサラと揺れている。
「うん。多分、ストレスとか、栄養失調じゃないかな。先生、いつもラーメンばっかり食べてるから……」
テレビのモニターには、心配そうなヒカルの表情が映り込んでいる。彼はソファの下に胡坐をかいて座り、膝の上にクッションを抱えていた。こうしてなにか乗せていると、不思議と落ち着くのだ。
二人は夕食を済ませた後で、ヒカルはテレビゲームを楽しみ、リリカはスマートフォンで新しい靴をチェックしている。
二人が通う白鷹学園に救急車が呼ばれたのは、本日の昼休みのことだ。中林という生物教師が運ばれていったという噂は直ぐに広まったが、その理由については伝えられていなかった。
「中林先生、一人の時じゃなくて良かったね。ヒカルが居なかったら、大変なことになってたんじゃない?」
「確かに。よかったよ、今日が手伝いの日で」
ヒカルは中林を介抱した時のことを思い出して、掌にジワリと汗をかく。中林が突然泡を吹いた時は、本当に彼が死んでしまうのではないかと驚いたのだ。さらにヒカルには、生物準備室の地下にある部屋のことがばれてしまうのではないかという不安もあった。
中林が救急車に乗せられた後、ヒカルは職員室で担任の上川を始めとする教師たちに当時の状況を説明せねばならず、言い訳を考えるのに非常に苦労したのだ。
最終的には中林の不摂生と老体が原因ということに落ち着いたが、いつまた職員室に呼び出されるかと思うと、ヒカルには生きた心地がしない。地下へ繋がる扉は隠されているが、中林の不在時に他の教員が部屋に入ることもあるだろう。
ヒカルは、チラリと時計に目を向けた。時刻は、二十時四十分になろうというところ。
(南城先生が居なかったら、多分、帰れてなかったな……)
心の中で呟くと、ヒカルは溜息を漏らした。
南城サクラは白鷹学園中学・高校の体育教師で、隣のクラスの担任でもある。
南城は状況を淡々と整理して事件性がないことを強調し、ヒカルを擁護して彼に帰宅を促してくれたのだ。
当初、ヒカルは「中林が突然、泡を吹いて倒れた」という事実をありのまま伝えたのだが、中々信じて貰えなかった。それはヒカルにも仕方のないことだと理解出来ているのだが、それでもやはり悲しく思った。
そんな時、「東條は、嘘を言うような生徒ではありません」という南城の一言は、ヒカルには救いのように聞こえたのだ。南城がアオイの後輩であるということも関係しているのかもしれないが、それでもやはり嬉しいことに変わりはなかった。
(アオ姉にも、庇ってもらったって言っといた方がいいかな……)
そんなことをボンヤリ考えているうちに、ヒカルはまたアオイの婚約のことを思い出して悲しい気持ちになった。
テレビのモニターの中では、中世の鎧を身に纏った人狼が、ヴァンパイアと激しい闘いを繰り広げている。左手に構えた銃の弾丸は残り少なく、右手の十字架を模した巨大な剣だけが頼りだ。
「ねえアオ姉、今日も遅いって?」
「……うん」
「……なに? もしかして、まーだ拗ねてんの?」
別にと、ヒカルは短く返す。手元の操作はミスを重ねて、回復アイテムは早くも尽きている。
「いいじゃない、婚約。憧れちゃうな~」
リリカはチラリと、ヒカルの後頭部に目をやる。
ヒカルは、そうだねと興味無さげに返す。画面の中の人狼は深手を負っていて、絶望的な状況だ。
「ね、どうする? もし、アオ姉と淡路さんが……」
「なんだよ」
ヒカルは食い気味に言葉を返す。
そのぶっきら棒な言い方に引っかかるものを覚えて、リリカは意地悪を言ってやろうという気持ちになった。
「今日、ホントは仕事じゃなかったりして~」
ヒカルの肩がピクリと動いて、その直後にテレビの画面は暗転した。そこには倒れた人狼と、血文字で「YOU ARE DEAD」の文字が表示されている。
ヒカルはコントローラーを膝上のクッションに落とすと、頭をソファに乗せて天を仰ぐ。その悲しみに満ちた表情は、リリカの意地悪を非難しているようでもあった。
「あのねえ……アオ姉だって、もういい歳なんだからね? むしろ、あんなに忙しいのに恋愛だってちゃんと出来てたんだって、喜ぶところじゃない? 違う?」
「だから、僕は別に」
「拗ねてるでしょ? 不貞腐れて、バッカみたい」
リリカの指が、ヒカルの額をペチッと叩いた。
ヒカルは額を守るふりをして、両腕で顔を隠す。リリカの言うことは図星で、彼にはなにも言い返すことが出来ない。
自分がなぜこんなにも姉の婚約を受け入れることが出来ないか、それはヒカルにも分からずにいる。
「僕は別に……淡路さんのことが嫌いなんじゃないよ」
「じゃあ、なあに?」
分からないと、ヒカルは返した。それは彼の正直な気持ちだった。
淡路はアオイの部下で、元々は彼女の周りを付け回していた危険人物である。それがひょんなことからアオイと共に仕事をするようになり、同居するようになり、そしてついには婚約に至った。
淡路がアオイを大切に思っていることは、ヒカルにも分かっている。二人に恋愛感情が芽生えたとしても、それは決しておかしなことではない。
この数日間、ヒカルは無意識に「職場恋愛」というワードを幾度もネットで検索していた。多忙な職業には、よくあることらしい。そしてヒカルが調べたところによれば、職場恋愛は結婚にも至りやすいとあった。
どんな角度から捉えてみても、二人の関係が世間一般的によくある結婚までの途上にあることは明らかである。ただヒカルは、それを理解は出来ても、受け入れることが出来ずにいるのだが。
「結婚かあ……」
腕の隙間から、ヒカルの目は天井を捉えている。
リリカはスマートフォンから目を離して、そんなヒカルに目を向けた。
二人は昨年のクリスマスに、ようやく彼氏彼女という関係になったばかりの幼馴染だ。そんなリリカにとって、今回のアオイの婚約話は、二人の関係を前に進めるための切っ掛けになるのではと思えている。
リリカは無意識に、そっと唇に触れていた。
ついこないだの夜、リリカはヒカルにキスされたのだ。しかし寝たふりをしていた時に不意打ちでされたということもあって、それは彼女の中ではファーストキスとしては認められていない。
「ま、とにかく元気出しなさいよ。二人とも、仕事で疲れて帰ってくるんだし。私たちが暗い顔してたら、家に帰っても疲れちゃうでしょ?」
笑ってと言いながら、リリカがヒカルの頭をグリグリと撫でまわした。
そうだねと弱々しく笑って、ヒカルはされるがままになっている。頭の片隅では、帰宅の遅い二人への疑惑がこびり付いて離れない。二人は本当に、仕事中なのだろうか。
気持ちを切り替えようと、ヒカルは手を伸ばしてテレビモニターの画面をゲームからニュース番組に切り替えた。
ニュースキャスターは、明後日からの三連休が快晴だと笑顔を見せている。
リリカが、連休は映画を観に行きたいと言う。その帰りには新しくできたドーナツ屋へ行ってみたいと言って、ヒカルの肩を揺らしている。
ヒカルはリリカに肩を揺さぶられながら、それに生返事していた。頭の中では、今週は布団が干せそうだとか、久しぶりに手の込んだ料理が作りたいなと別のことを考えている。
天気予報が終わるなり、キャスターは急に大真面目な顔になってニュースの原稿を読み始めた。それは、先日のスキー場での事件だ。
「――との見方を強めており、近く現地での調査が再開される見込みです。また現場付近では、ハンターたちの姿を目撃したという……」
ハンターという言葉にドキリとして、ヒカルはそっと横目でリリカの表情を盗み見た。
「なにこれ? 火山の噴火じゃないってこと? アナザーなの?」
「さあ? まだなにも、分からないみたいだけど」
テレビモニターに映るスキー場の惨状から、ヒカルは目を逸らしている。
「隕石とかって話もあったでしょ? ……なんでもいいけど、地震は嫌だな」
リリカが不安そうに言うのを聞いて、ヒカルは肩に置かれた彼女の手を握った。大丈夫だと、ヒカルはなにより自分自身にそう言い聞かせる。ハンターとしてアナザーを狩った自分の行いは、決して間違いではないのだ、とも。
「アオ姉と淡路さん、早く帰れるといいね」
リリカがヒカルの手を、ぎゅっと握り返す。
そうだねと応えながら、ヒカルは反省していた。二人が多忙である原因は、自分にもあるというのに。ヒカルはそれを忘れて、二人が本当はデートしているのではないかと疑ってしまっていたのだ。
(いつまでも、ウジウジしてらんないよな……)
リリカの言葉を思い出して、ヒカルは口元に笑みを浮かべる。仕事で疲れて帰ってくる二人のためにも、自分は笑顔でいるべきなのだ。
連休の計画を立てようと、ヒカルが笑いかけた。
リリカはパッと顔を輝かせると、スマートフォンを片手に、事前にチェック済みの店のホームページをヒカルに紹介するのだった。