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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
Another
189/408

4-1 月下に咲く ②



 二〇×二年 二月 九日 水曜日


 十二時半。


 昼休み。白鷹学園高校の生物室の地下で、東條ヒカルは普段のように中林の診察を受けていた。燃えるような赤毛は、頭の後ろが少し跳ねている。彼にしては珍しく、今朝は寝坊したのだ。


 スキー場での事件からまだ数日しか経っていないが、既に学校の授業が始まっていることもあって、皆は日常を取り戻しつつある。


「うむ。問題なさそうだ。今回も、大手柄だったな。ヒカル」


 ポンと肩を叩くと、中林はヒカルからスーツを受け取って作業台に移動する。老人の見た目に似つかわしくないその軽快な足取りは、彼が本来は青年であることをヒカルに思い出させた。


 中林は普段は老人の姿で生物教師として働いているが、本来は四十そこそこの医師である。彼こそが、ヒカルをハンターに変えた人物なのだ。


「コアトリクエは、強敵だったようだな」


 中林は満足そうに呟く。彼の手にあるスーツは両腕が破けていて、背中の一部にも亀裂が走っていた。


「すみません。いつも直して貰うことになって……」


 ヒカルは視線を落として、シャツのボタンを止めている。


 中林はヒカルの横顔を眺めて、それから、なにも気にしないようにと伝えた。


「君がコアトリクエを倒さなければ、我々は今頃どうなっていたことか。誰一人として犠牲を出さなかったのだ、君は。もっと誇りたまえ」


 中林は皴だらけの顔――といってもこれは老人に化けるための特殊メイクなのだが――をクシャッとさせて、優しく笑ってみせている。


 ヒカルは中林の優しさを嬉しく思い、笑顔で応えた。


 あの日、大勢の人々がコアトリクエの歌により危機に陥った。一人の犠牲も出さずに解決出来たことは奇跡で、そしてそれは自分の力ではないとヒカルは考えている。キツネやインドラの助けがなければ、コアトリクエには勝つことが出来なかっただろう。


 意識を失っていた人々は一様に、不思議な夢を見たと証言している。しかし事件の翌日には夢の内容を覚えている者は少なく、誰もそれを口にしなくなっていた。人々の興味の対象は、夢ではなく不可思議な自然現象へと移ったからだ。


「あの……山、なんですけど……」


 ヒカルは、ボソッと呟く。


 中林は直ぐに察して、部屋の照明を落とすと壁にパソコンのモニターを投影させた。


 そこに映し出されたニュース番組の切り抜き映像の中には、スキー場にポッカリ開いた巨大な跡が鮮明に映し出されている。それは、クレーターにも似て見えた。


「ガスだの、隕石の落下だのと自称専門家どもが群がって色々とやっているが……真実に辿り着く者は、いないだろうよ。誰も、君の力とは思うまい」


「先生。ニュースで、前の震源地と同じだったって」


「そうだとも。偶然にも、あの大地震の震源地とされている場所だったようだ」


 そう口にしてから中林は、ヒカルがなにを不安に思っているのか察した。


「心配せんでも、あれが再び大地震を誘発するようなことはない。君は表面に、ちいっとばかし穴を開けただけだ。コアトリクエを埋めた穴の底から、プレートまで何キロあると思うんだね?」


 中林は髭を撫でながら、ヒカルを揶揄うように笑う。


 ヒカルは中林の言葉でようやく安心して、心配性な自分をダメな奴だと笑った。


 中林には助けてもらってばかりだと、ヒカルは心の中で感謝と反省とを繰り返している。数年前、死の淵にいた自分を救ってくれたのも、他ならぬこの中林なのだ。あの日、偶然彼に会うことがなかったら、今の自分は存在していない。


(でも、どうしていつも助けてくれるんだろう――?)


 心に浮かんだ疑問を、ヒカルは頭を振ってかき消した。中林が自分に求めていることは、人々の平和を守るためにアナザーを狩ることだと思い直したのだ。


 ヒカルの表情に陰を見て、中林はそれを訝しむ。少し前から、中林はヒカルの様子に普段と違うものを感じとっていた。


「なんだね? まだ、気になることがあるようだ」


 中林の問いに、ヒカルは首を横に振って応える。


「そうかね? ……元気が無さそうに見えるが?」


 一歩踏み込んだ中林の問いに、ヒカルは息を飲んだ。自分でも忘れようとしていたことが、再び急速に頭の中を支配していく。


 ヒカルはガクリと項垂れて、両手で頭を抱え込む。


 一体何事だと、中林はヒカルに優しく声を掛けた。


「先生。僕……シスコンなんです」


 中林は、言葉を失った。呆気に取られて、なにも言えなかったのだ。


 ヒカルは中林には目もくれず、床に視線を落としたまま、ぽつりぽつりと言葉を続ける。


「僕の姉は優しくて、いつも前向きに努力してて、美人なんです。だから本当に尊敬していて……」


 なんだそんなことかと、中林は心の中で呟く。ヒカルの姉――東條アオイについては、中林もよく分かっている。


 中林と東條アオイ――中林は彼女をイリスを呼んでいる――は、かつて「エコール」と呼ばれる施設で共に暮らしていたことがあった。それは彼にとって幸せな思い出であり、彼女にとっては真逆のものでもある。


 ヒカルがアオイを褒める度、中林はそれに同意してうんうんと大きく頷いて見せた。ヒカルは相変わらず床を眺めていて、それに気付いていなかったが。


「そんな姉が、急に婚約して」


「……ん?」


「婚約したんですよ。急に。相手の方は、前から勝手に婚約者ぶって……っていうと凄く言葉が悪いですけど。でも、今までは本当じゃなくて」


「ん。ん?」


「自分でも、小さい奴だって分かってるんです。分かってても、急すぎて……もうずっと混乱してるんですよ」


「こ……?」


「ええ、混乱です。そりゃ、僕だって本当は分かってますよ。姉が選んだなら、お祝いしなきゃって。……でも、元気が出なくて」


 大きなため息を漏らして、ヒカルはようやく顔を上げた。


 中林の視線は、定まらず宙を漂っていた。彼の脳裏では、雪山での出来事が再生されている。あの時、中林はイリスの胸元に小さな痕を見ていた。


(婚約? イリスが? 聖なる器たる彼女が? 婚約? 人と? 婚約、コンヤク……?)


 中林の異変を察知して、ヒカルは慌てて立ち上がった。


 中林はフラフラと、前後に揺れている。


 先生と、ヒカルは声を掛けた。しかし中林は、応えない。


(ああ……私の、わたしの、かわいい、かわいい、いりす……)


 突如、中林は口からブクブクと泡を吹いた。彼はそのまま、真後ろに倒れていく。


 ヒカルは中林に駆け寄ると、大声で彼の名を呼んだ。


「先生! しっかりしてください! 先生!」


 頭を打っていないか確認して、ヒカルは中林のネクタイを緩め、手首で脈を取る。


 中林はヒカルに介抱されながら、かつての甘い夢の日々が悪夢に塗り替えられていくように感じていた。


 狭まる視界と混濁する意識の中で、中林は決意する。最早、キツネやインドラによる核の回収を待つことは出来ない、と。


(探さねばならぬ。適合出来るだけの体と……心の持ち主……)


 そうしてヒカルの声を遠くに聞きながら、中林は完全に意識を失った。夢をみる彼の頭の片隅には、紅く輝く核の存在があった。

  

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