4-1 月下に咲く ①
第四部 Another
一、月下に咲く
二〇×二年 二月 十一日 金曜日
桜見川区。
南城家。
深夜の月は優しくて残酷――そう心の中で呟いて、南城ケイイチロウは視界を滲ませた。夜毎に襲う、津波のような後悔。過去は彼を部屋に閉じ込め、未来への不安は外界との間に高い壁を築かせている。
涙はなにも解決することはなかったが、一時の安寧をもたらすという点では丸きり無駄という訳でもなかった。
意味がないものなど何処にも存在しないと、記憶の中の父が言う。
あなたは愛されていると、頭の片隅で母が言う。
皆が心配していると、妹が言う。
だから、ケイイチロウは死を望んでいた。抱え込んだ希死念慮は日に日に肥大し、もはやいつ体を食い破ってもおかしくはない程に姿を変えている。
今日こそはと、毎日そう決意する。しかしなにも出来ずに、長過ぎる一日を無駄にする。その繰り返しは、僅かに、けれども確かに彼の心を蝕んでいた。
おいでと、なにかに呼ばれたように思って、ケイイチロウはそれを悲しく思う。自分を呼ぶ者が、最早居るはずがない。産みの親ですら、もう随分と長いこと彼の前には姿を見せていないのだ。
おいでと、再び声がした。ついに死神が迎えに来たのかと、ケイイチロウは目を閉じる。
しかし、声は現実に聞こえていた。
ケイイチロウは月明かりの下に、男の姿を見る。庭に、誰かが立っている。
死神か、物取りかと考えて、そして直ぐにケイイチロウは考えることを止めた。例えどちらであっても、自分を殺めてくれるのならば、それは神様に違いないと考えたからだ。
踏み出した先、重い扉の向こうには、自分の知らない空気が流れていた。沢山の人間の生活する匂いと、酒と香とが混じり合っている。
静寂に満ちた家の中では、自分の足音は嫌に耳に響いた。ドカドカと威嚇するように歩いてやってもよかったが、ケイイチロウはシトシトと梅雨時の雨のように足を運んだ。
ケイイチロウが庭に出た時、男は木の下で彼に手招きしていた。男は、人間だった。
招かれるまま傍へ行って、少しの距離を取ってケイイチロウは足を止める。彼の目は、男の掌が不思議な光を放つのを見た。
紅く輝く、小さな塊。
「――ああ。あなたは」
男の声は、見た目に反して若々しく生気に満ちていた。
「あなたは、美しい。……しかし、そのお若さで、病を抱えていらっしゃる」
男の声は、不思議と胸の内側に入り込むようだった。ケイイチロウは無意識に警戒し、拳を握りしめる。
男はケイイチロウの方へ手を差し出すと、彼に掌の塊を取るように促した。
ケイイチロウはそれを嫌だと思ったが、意思に反して彼の手はその塊を求める。塊は掌の中で、一層輝きを増していく。
なにもかも不思議なことだらけだが、ケイイチロウはそれに疑問を抱くのを止めていた。人の生き死にというのは、こういうことなのかもしれないと考え直したからだ。生まれてから死ぬまでに、説明のつくような、納得のいくことの方が少ないのではないだろうか。
不意に掌の光り輝く塊が彼を天国へ導く秘薬に思えて、ケイイチロウはそれを迷いなく飲み込んだ。
次にケイイチロウが顔を上げた時、男の姿は消えていた。
誰かが起きたのか、母屋に電気が点いている。
空が、突然晴れて見えた。夜中だというのに、視界が何処までもクリアで美しく思える。
ケイイチロウは、体の内側からなにかが込み上げてくるのを感じていた。