3-10 STOP! ④
*
十時四十分。
欠伸交じりにアオイが部屋を出ると、リビングではリリカがスマートフォンで音楽を聞いているところだった。リリカは膝の上にタブレットを乗せて、なにか調べ物をしている。
「おはよう。リリちゃん」
「おはよ。……って、もうすぐお昼じゃない。アオ姉、今日は仕事?」
アオイが頷くと、リリカは残念そうに肩を落とした。構ってほしかったのだ。
アオイが台所で水を飲んでリビングへ戻ると、リリカが彼女を隣に呼ぶ。
「なあに? ……クリームソーダ?」
「そ! ヒカルったら、一人でカワイイもの飲んでるの。ほら、淡路さんも」
リリカのスマートフォンの画面には、食べかけのプリンの写真がある。
アオイがどこのプリンだろうと呟くと、リリカは区役所だと答えた。
「区役所……?」
アオイは、寒気を覚える。何故そんなところに、ヒカルと淡路がいるのだろう。
何が起きているのかと必死で考えを巡らせながら、アオイは出来るだけそんな素振を見せないように振舞った。リリカのことを、不安にさせたくないからだ。
「そういえば、なにか調べもの?」
「そう。……ねえ、アオ姉。ファーストキスって、寝てる時はノーカンだよね?」
「んー……ちょっと、話が見えないかな」
ヒカルは一体なにをしているのかと、アオイは別の不安を覚えた。基本的には当人たちの自主性に任せる方針でいるが、それは見方を変えれば放任とも取れるのかもしれない。
昔から不在がちにしてきたが、やはり年頃の二人だけにするべきではないかもしれないと、アオイは頭を抱えている。弟のことは信用したいが、万が一のことが起きてからでは遅いのだ。
「アオ姉は、何歳の時だった? 相手は? どんなところ? 夜景とか観た?」
「そうねえ……もう、忘れちゃったかな」
アオイは本当のことを話せず、笑顔で誤魔化した。リリカは、そんなに昔のことなのかと驚いている。
続けてリリカが別の質問をしようとした時、アオイの部屋の方でバイブレーションの音がした。
アオイはヒカルが区役所に居ることを思い出して、思わず息を飲む。
電話を取らないのかとリリカに尋ねられて、アオイはようやく電話に気付いた様子で部屋に戻る。
スマートフォンは、アオイのベッドサイドで着信を告げていた。画面には、ヒカルの名前が表示されている。
ベッドに腰を下ろすと、アオイは少し躊躇って、それから静かに耳に当てた。
「あ……ヒカル……?」
「もしもし? アオ姉? 聞いたよ、どういうことだよ」
ヒカルの声は、荒れている。
アオイは反射的に側面の電源に触れてしまい、通話はそのまま途切れてしまった。
胸に手を当てて、アオイは息を整える。ヒカルは、なにかを知ってしまったのだ。
アオイが電話を掛け直さねばと慌てていると、今度はリビングの方でリリカのスマートフォンが鳴った。
リリカはタブレットを操作しながら、スマートフォンをスピーカーにして電話に出る。
「リリカ? アオ姉は? いるだろ?」
「え、なに、急に? 居るけど? 電話、掛けたんじゃなかったの?」
漏れ聞こえてくる会話に、アオイは心臓が止まりそうになる。
リリカは困惑した様子で、スマートフォンとアオイの部屋のドアを交互に眺めた。
「なんだよ、婚約って! 僕、聞いてないよ!」
部屋中に響く、ヒカルの悲鳴。
(あ……そっち……)
アオイは胸を撫で下ろして、そのままベッドに沈んでいく。最悪の事態は、免れた。ただ、こちらも充分問題ではあったが。
ノックしてから、リリカはアオイの部屋を覗き込んだ。
スマートフォンの向こうでは、ヒカルの叫びと淡路の笑い声が響いている。
「ヒカル? ……うん。え、アオ姉? えっとねえ……うん。そう。死んだふりしてる」
叩き起こしてくれと、ヒカルは彼にしては過激なことを口走った。
「ヒカル君。これで僕ら、本当の兄弟になれるね」
「嫌です! 無理です! 絶対、認めませんから!」
スピーカーの向こうで、淡路はアハハと笑い、ヒカルは子供のように駄々を捏ねている。
アオイは胸に手を当てて目を閉じ、嵐が過ぎるのを待とうとしていた。
仕方ないなあと、リリカは呆れて溜息を漏らす。
「もう。アオ姉。どうするの? ハンバーグの材料、買いに行く?」
私が居ないとダメなんだからと、リリカは腰に手を当てて笑っている。
アオイは死んだふりを続けたまま、コクリと静かに頷いた。
リリカのスマートフォンからは、「婚約なんて嫌だ」とヒカルの悲痛な声が響いている。
この家はいつも賑やかだと、リリカが楽しそうに呟いた。
第三部 完。
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