3-10 STOP! ③
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二〇×二年 二月 七日 月曜日
十時。
桜見川区役所。
ヒカルは戸籍課の前に腰かけて、ボンヤリと手の中にある封筒を眺めていた。封筒には、窓口で発行してもらった戸籍謄本が一部入っている。
ヒカルは学校で必要になったと聞かれてもいない嘘の説明をして、自分で書いた保護者の同意書を提出したのだが、窓口の担当者は特に疑う様子もなくあっさりと発行してくれた。
ヒカルは手の中にあるそれを、先程から眺めてばかりいる。
「ヒカル君?」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには淡路の姿があった。彼はスーツ姿で、コートのポケットに手を入れている。
「珍しいね、こんな所で。今日は一人?」
「ええ。あの、淡路さんは?」
ヒカルは、傍にアオイがいるのではないかと緊張を覚える。家を出る時は、アオイはまだ自室で眠っていたようなのだが。
淡路は私用だと短く答えて、それからヒカルを喫茶コーナーに誘った。区役所の一階の隅には、喫茶店が入っている。淡路は午後から仕事で、その前に少し息抜きをしたいというのだ。
アオイは家に居るのだと聞いて安心し、ヒカルは言われるがまま淡路の後についていった。
「市役所の喫茶コーナーって、レトロな感じが好きなんだ」
淡路はプリンアラモードとコーヒー、ヒカルはクリームソーダを注文する。
「ちょっと分かる気がします。色使いとか、器とか、メニューとか」
看板もだと、淡路は店の外を指している。そこには電気の点いた置き看板が置かれていて、白地に黒の文字で「喫茶 侯爵」と書かれていた。
「最近じゃ病院にも本屋にも、『ストバ』とか『シアトルズ』とか、ああいうカフェが入ってるだろう? でも、敢えてこのスタイルで営業しているところが良いんだよ」
オリーブグリーンのソファに体を預けて、淡路は笑う。
ヒカルも、同意して頷いた。
角に傷が付いたダークブラウンの小さなテーブルは店の歴史を感じさせ、水の入ったグラスはよく磨かれている。店中の物が、とても大事にされているようだ。
やがて小太りのウェイトレスが、店を褒められて上機嫌な様子で二人の前に料理を運んできた。
ウェイトレスはプリンアラモードとクリームソーダをヒカルの前に置いて、淡路の前にはコーヒーだけを置く。彼女が去ってから、ヒカルは笑いを堪えてそれを淡路の方へ寄せてやる。
よくあることだと、淡路は少し笑ってスプーンを手にした。
ヒカルの前に置かれたクリームソーダは、色鮮やかなグリーン。上にはこんもりとバニラアイスが乗せられていて、脇には小さなサクランボが添えられている。
ヒカルが写真を撮ると、淡路はリリカに送るのかと尋ねた。ヒカルは、少し照れて頷く。
「好きそうだなって。作れって、言い出しそうですけどね」
「大好きなんだね」
「えっと……はい」
ヒカルがリリカに写真を送ると、彼のスマートフォンには直ぐに返信があった。
「『後ろのやつなに?』だそうです」
「流石だなあ。撮るかい? 少し、食べちゃったけど」
ヒカルは淡路に礼を言って、食べかけのプリンアラモードの写真を撮るとリリカに送信した。
クリームソーダを口にして、ヒカルは緊張が解けていくのを感じた。無意識に、自分は朝から気を張りつめていたようだ。
「今回は、残念だったね。折角の合宿だったのに」
その言葉を聞いたヒカルは、淡路が自分を元気づけるために此処へ誘ったのだと気付いた。ヒカルはそれを、素直に嬉しく思う。
「少しだけど滑れました。それに、えっと……アオ姉と淡路さんの方こそ大変でしたよね。長野には、また行くんですか?」
「しばらくは、無いと思うよ。まあ、この後は、偉い人達が決めることだからね」
淡路は、笑う。
事件についてのニュースは繰り返し流れていたが、アナザーによるものだと断定している情報はなかった。新興宗教による集団催眠事件、火山ガス、大地震の前兆などと、情報は錯綜している。
「そういえば、今日はどうしたんだい?」
淡路は壁際のポットから角砂糖を一つ、コーヒーカップに落としている。
ヒカルは座席に置いたままの封筒を思い出して、それから言い訳を考えてみた。しかし中々思いつかず、嘘を吐くことも嫌になって、彼は考えることを放棄する。
淡路は、ミルクを注いでベージュ色になったカップの中身を匙で掻き混ぜていた。
ヒカルはソーダに浮かぶアイスをストローの先で突いて、いつの間にか沈んでいたサクランボをすくい上げたりしながら次の言葉を待っている。
少ししてヒカルが顔を上げると、彼は淡路と目が合った。淡路はいつもの笑顔で、コーヒーを口に運んでいる。その目はヒカルに、「無理に答えなくていい」と言ってくれているようだった。
だからヒカルは、淡路には話せるような気持ちになった。
「凄く、変な話なんですけど」
ヒカルは緊張して、一度唾を飲み込んだ。
「僕、親の顔を知らなくて。一度も見たことないんです。全然、覚えてないんです」
それからヒカルはリリカに話したように、アオイとの血の繋がりについて疑問を持ったことを話した。ヒカルは自分が馬鹿なことを言っていると思ったが、淡路は表情を変えずに静かに頷いて耳を傾けている。
「――だから、戸籍を確認したかったんだね」
淡路の声は、穏やかだった。
ヒカルは頷くと、座席から封筒を持ち上げてテーブルの上に置く。
中身を見たのかと尋ねられて、ヒカルは首を横に振った。
「出来ないです。……だって、アオ姉が他人な訳ないから」
中身を見たら、アオイを酷く傷つけることになる――俯いてそう呟いたヒカルの声は、震えていた。
淡路はカップをソーサーに戻して、それから真っすぐにヒカルを見つめる。
「――本当のことを知りたいのなら、君は中身を見てもいいんだよ」
ヒカルは顔を上げて、淡路を見た。
淡路は、笑っていなかった。
「世の中には、沢山の『本当のこと』が隠れている。それを知ることは、どうやったって誰かを傷つける。そういうものなんだよ。残念だけどね。大事なのは、その後だ」
「あと?」
「そう。本当のことを知って、何がしたいか。どんなに小さなことでも、『知る』ことは君を変えていくから」
淡路はポットから角砂糖を掴むと、それをカップに半分程残ったコーヒーの中に落とす。
角砂糖は、ホロホロと溶けて消えていく。
「難しいんだ。本当のことは、幾つも顔があるから。僕も迷う。いつも、迷うよ」
ヒカルの前にいる淡路は、普段の彼とはまるで別人のようだった。彼は深い悲しみや後悔を、数えきれないほど背負っているように見えた。
ヒカルは、再び封筒に目を向ける。
封筒の中を見たら、そこに何が書かれていても、ヒカルは自分がそれまでの自分ではなくなるのだと思った。
本当のことを知って、なにがしたいのだろう。
アオイとの血の繋がりを確認することで、何を得たいのだろう――。
衝動的に、ヒカルは封筒をグシャリと捩じった。
淡路はそれを見ても、驚く様子を見せなかった。
「……ごめんなさい、変なこと。……ありがとうございます」
グシャグシャに丸めた封筒を、ヒカルはカバンに放り込んだ。
ゴクゴクとソーダを飲み干して、ヒカルは口元を拭う。馬鹿なことをするところだったと、彼は心の中で淡路に感謝していた。
グラスの底で氷に潰されているサクランボを眺めながら、ヒカルは他の話題を探す。こういった時に限って、なにも思いつかない。アナザーの一件もあって、世間は明るいニュースにも乏しい。
「そういえば……淡路さんの方こそ、今日はどうしたんですか?」
淡路は、スプーンに伸ばした手をピタリと止めた。
「あれ? もしかして、聞いていないかな?」
淡路は、いつもの笑顔を見せる。
デジャブだと、ヒカルは嫌な予感がした。