3-9 unmask ⑫
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二〇×二年 二月 五日 土曜日
六時。
鳥の声に混じって遠くから響くサイレンで目を覚ますと、アオイは傍に淡路の顔を見つけた。彼に抱えられる格好で、眠っていたようだ。
どれほど眠っていたのだろうかと周りを見回して、アオイは自分が洞穴のような所にいると気付く。壁は一面、雪のようだ。ルシエルは、ここには居ない。
アオイが体を揺らすと、淡路も直ぐに目を覚ました。
「……寒くなかったですか? どこか、痛いところは?」
「大丈夫。ここは? ……彼は?」
淡路は、首を横に振って応える。
淡路の説明で、アオイは自分が眠っている間に雪崩が起きたことを知った。ルシエルはそれに巻き込まれた、とも。
ただアオイは、彼が生きているのだと確信している。あの男が、そんなことで死ぬようには思えない。
「位置情報が取れなくて。暗い中、背負って歩き回る自信も無かったんですよ」
外が薄らと明るくなり始めているのを見て、淡路は安心した様子をみせている。
淡路は雪崩に巻き込まれて林の斜面を転がり落ちた後、一晩待機することを決めて雪洞を掘っていた。ハンターやアナザー、そしてあの男の動向は気になったが、アオイの存在が淡路に安全策を取らせていた。
「アナザーは、ハンターが狩ったようです。コアトリクエも。……ホテルの方、騒がしいですね。皆さん、目を覚ましたみたいだ」
淡路はスマートフォンを起動して、北上からの素っ気無い報告を確認し、その一部をアオイに伝えている。そこにはコアトリクエの最期が記されていたが、淡路はそれについては触れなかった。
アオイは淡路の報告を耳にしながら、意識はサイレンの方へ向いている。淡路の報告が誰による情報なのか、この時アオイは深く考えていなかった。
ホテルへ向かいましょうと、淡路がアオイに声を掛ける。
アオイは頷くと、淡路から離れて雪洞から外へ出た。
「これ……造ったの?」
それまで居た場所を見て、アオイは尋ねた。かまくらをより小さくしたようなものが、斜面にぽかりと開いている。近くの木には、布が巻き付けられていた。万が一の時のために、淡路が目印として結んだのかもしれない。
「ええ。……ああ、でも」
アオイに遅れて出てきた淡路が、前方を見て苦笑した。
「どうやら、助けられたみたいですね」
淡路の視線の先には、薄い膜のようなものが映っている。二人が居た雪洞の周囲、半径五メートル程の場所を、氷と水とで出来た天幕のようなものが覆っていた。
アオイはその傍へいくと、そっと手で触れてみる。
膜はシャボン玉のように、パツンと弾けて消えていった。
(まさか、キツネが? でも、どうして……?)
アオイの頬に、風が刺さる。天幕は、寒さから二人を保護していたのだ。
荷物を整えて、淡路が傍へやってくる。そうして促されるまま、アオイはホテルへ向かって歩き出した。
「まだ、寝てるのかも」
「能登ですか?」
「だって、どっちにも連絡きてないでしょ? こんなにサイレン鳴ってるのに」
淡路はアオイが能登を殴ったことを気にしているように思ったので、彼に怪我はなかったと再び伝えた。
よかったと、アオイは短く返す。
足元に気を付けてと、淡路がアオイの手を取った。アオイは淡路の支えを受けて、林の中を進んでいく。
「ねえ、そういえば」
「あー。向島さんも大丈夫ですよ」
さっさと話を終わらせたい様子の淡路を見て、アオイは笑った。
「どうしてそんなに、露骨に嫌がるの?」
「聞きますか? それ。……そりゃあ、妻にちょっかい出されたら、嫌でしょう。普通」
「……『妻』になった覚えなんて、ないんだけど?」
アオイと淡路は、顔を見合わせた。
淡路はアオイに、プロポーズされたと主張する。「死ぬ時は一緒」という言葉は、淡路の中では「結婚しよう」と同義だという。
アオイは、冷めた目をして手を離す。淡路はその様子から、彼女には本当にその気がないのだと察した。
「酷いです。アオイさん」
淡路は、悲し気に呟く。
「悲しいです。アオイさん」
淡路は、更に泣き落としにかかる。
目を逸らして、アオイは林の奥やホテルの方角へと順に目を向けた。それからまた視線を戻すと、彼女の目は不意に、前を行く淡路の背中を捉える。暗くてよく見えていなかったが、彼方此方ボロボロだ。そんな素振は見せないが、何処か痛めているのかもしれない。
「……庇ってくれたんでしょ。怪我、してるんじゃないの?」
アオイは、先ほど淡路が「背負って歩き回る自信がなかった」と口にしていたことを思い出していた。
大丈夫ですよと、淡路は笑っている。
「……いいのに。私、怪我したって平気だから。もう、知ってるじゃない。どうせ、すぐ治るんだから」
「そういうことじゃ、ないんですよ」
窘めるような淡路の口調に、アオイは言葉を詰まらせた。
口の端をきゅっと噛むと、アオイは視線を落として淡路の少し後ろを行く。
スキーのコースまで戻ってきたところで、淡路は無言でアオイの方へ手を差し出した。アオイも無言で、その手を取る。
「彼……なにか、言ってた?」
自分がどんな存在であるか、アオイはそれを考えている。
「いえ、特には。ああ、妻だとは、伝えておきましたよ」
淡路は自分を笑わせようとしているのだと気付き、アオイは微笑む。
登ってきた陽の光で、コース一面がキラキラと輝いている。まるで、宝石の野を行くようだ。
「ねえ。そんなに『妻』がいいの?」
「そりゃあ、勿論。世間様に大手を振って、堂々と主張できますからね。『俺の』って」
普段は「僕」という淡路が、「俺」と口を滑らせた。それがアオイには、新鮮に聞こえている。
「でも、指輪を用意していませんね。あ、アオイさんは、時計の方が良いとか? 他に欲しいものがあれば、そちらでも」
欲しいものと聞かれて、アオイは直ぐに愛車のタイヤやホイールを思い浮かべる。今使っているタイヤは今季限りで寿命が来そうなので、どこかで買い換えておきたい。
アオイの表情を盗み見て、淡路は苦笑した。恐らく彼女は貴金属ではないものを思い浮かべているのだと、彼には予想出来ている。
アオイは、淡路の背中に目をやった。
風で口元へ運ばれてきた髪を、アオイは左手で耳に掛ける。すると指に、なにかが当たった。
「そういえば、まだお返し贈ってない」
アオイの口ぶりで、淡路はそれがクリスマスプレゼントの話だと察する。あの日彼が贈ったピアスは、アオイの耳元で光っていた。
「じゃあ、記入済みの婚姻届けでいいですよ」
冗談めかして、淡路は笑った。
予想通りの反応に、アオイも笑う。そして彼女は、淡路にある提案をすることにした。
「結婚なんて、今すぐ出来るものじゃないでしょ。だから……っていうのは、どう?」
淡路は予想外のことに驚きつつ、それを快諾する。
「……やっぱり、ダイヤにしましょうか」
淡路はペースを落として、先導するのではなくアオイの隣を歩いた。
アオイは、ダイヤは要らないと答える。
「だって、ほら。もう、貰った」
陽の光に照らされて、アオイの顔も輝いている。
淡路は、アオイの視線の先へ目を向けた。そこには山の派から、輝くばかりの太陽が顔を出している。アオイにはそれが、ダイヤモンドに見えているのだ。
二人は立ち止まって、しばらくその光景を眺めていた。
二人が山の形が変わっていることに気付くのは、それから数分後のことだった。