3-9 unmask ⑨
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二十二時。
キツネが両手を打ち合わせると、コアトリクエの足元からは幾本もの氷の刃が飛び出しその体を貫いた。
悲鳴を上げて動きを止めたコアトリクエの頭上から、ヘカトンケイル――ヒカルが拳を振り下ろす。
コアトリクエの体は、水風船が破裂するように弾けた。体の一部が辺りに飛び散って、それは離れた所で祈りを捧げていた相馬の体にも降り注ぐ。
「コアトリクエよ! 立ち上がれ! 血の供物を!」
血が流れる度に相馬は嬉々として声を上げ、それに応えるようにコアトリクエは再生を繰り返している。
辺り一面に漂う血の匂いで、ヒカルの鼻は既に麻痺していた。ありったけの力を込めて殴っているが、コアトリクエは直ぐに再生してしまう。このままでは、いずれ疲弊した隙を突かれてしまうだろう。
同じ時、キツネは別の理由で焦りを覚えていた。先程からヒカルと連携して攻撃を繰り返し、再生する側から常に攻撃を加えているのだが、一向に核が現れないのだ。反応は、確かにあるというのに。
(まさか、肉片からでも再生するとは……)
キツネはこれまでの経験から、核は同化している宿主の体が死ぬことで姿を現すことを知っている。しかし再生を絶えず繰り返すコアトリクエには、死という概念そのものが存在しないのかもしれない。
ヒカルの動きが鈍くなったことに気付くと、キツネは再生しようとするコアトリクエを冷気の渦で凍り付かせた。
巨大な氷柱と化したコアトリクエの傍へ着地し、ヒカルは更に後ろへ飛んで、片膝を着く。倒すことに意識を向けるあまり、彼は自分が体力を消耗していることに気付いていなかった。
相馬はコアトリクエの姿を眺めて、祈りを捧げている。
相馬が宇宙の彼方に高次元の存在があると気付いたのは、偶然のことだ。それまでの彼は、本業の傍ら趣味の作曲活動を楽しむただの青年でしかなかった。それが、一本の映画を観たことが切っ掛けで目覚めたのだ。
その古い映画は、宇宙探査機を描いたものだった。幾度もリバイバル上映会に通う内、相馬は同じ志を持つ高柳と出会い、彼を始めとする天文サークルの同士たちと出会うことが出来た。彼らはそれを、空に呼ばれたのだと考えている。
「先生。あなたのお力をお借りして、我々は今、超越者となったのです。天に、空に導かれ、我々は更なる高みへと……!」
「黙っていろ」
相馬の肩に、氷の矢が刺さる。
キツネはコアトリクエの動きを止めては、こうして相馬にも攻撃を繰り返していた。それは直ぐに再生するため、全くの無駄に終わっていたが。
コアトリクエを封じた氷の柱に亀裂が入るのを見て、ヒカルは膝を上げて構えを取った。
空に気配を感じたキツネが、ヒカルを手で制す。
天を裂くような光。
間を置かず、轟音と共に氷柱の上からはインドラが姿を現した。彼によって粉々に砕かれたコアトリクエは、四方八方に飛び散っていく。
雪の上に残された焼け焦げた肉の上に立つと、インドラは顔を上げて辺りを見回した。周囲にはキツネとヒカル、そして相馬の姿もある。
「インドラよ! 例え、神の名を関するお前であっても……!」
黙れと、キツネの矢が相馬を貫く。
相馬はその場に蹲り、ゼイゼイと息を荒げながら矢を体から引き抜こうとしている。
足元に異変を感じて、インドラは跳んだ。コアトリクエの肉片が、蠢いている。
インドラと並び立ち、ヒカルは彼のコートがボロボロであることに気づく。ここへ辿り着く前に、別の戦闘があったのかもしれない。
再生を始めたコアトリクエを見つめる彼らの耳に、音が届いた。それは遠く離れた場所で、雪崩が起きたことを彼らに予想させる。
彼らは今、同じことを考えていた。闘いが長引けば、生身の自分たちが圧倒的に不利だ。腕時計を付けているインドラ以外は正確な時間を把握していなかったが、それでも既に相当な時間が過ぎていることを体感で理解している。
ふとヒカルは、コアトリクエの再生速度がこれまでのどの時よりも遅いことに気付いた。
ほぼ同じタイミングで、キツネもそれに気づく。
「おい、お前。足を止めてやる。もう一撃、入れてこい」
「援護します!」
キツネとヒカルは、それぞれ構えを取る。
二人の顔をそれぞれ眺めて、インドラはガスマスクの下で顔をムスッとさせた。コートを台無しにされたり、出会い頭に車を投げられたりと、今日だけでも二人からは相当のことをされているのだが。どうやら彼らは、謝罪という言葉を知らないらしい。
「……これが、アナザーか?」
インドラの問いかけに、キツネとヒカルはそれぞれ別の反応を返した。その様子からあることを察して、インドラはガスマスクの下の顔を歪める。少なくともキツネは、アナザーが発する人の気配に気付いているのだ。
「アナザーではない! 我々は、神だ!」
ふらりふらりと、相馬が立ち上がる。彼の胸には血の流れた跡があった。
「ハンターたちよ。神を目指すならば、聞こえるだろう? この歌が」
相馬は目を閉じると、腕を真横に開いた。
皆の耳には、コアトリクエから発せられている歌が届いている。
「天井へ、その向こうへ。我らに英知を授けたまへ――!」
相馬は、共に歌い出す。
キツネとインドラは、彼とコアトリクエとを同時に倒す方法を考えている。だがこの時ヒカルだけは、別のことに疑問を抱いていた。
「歌って、そっちか」
少年らしさの残る無邪気な呟きを耳にして、相馬は歌うのをピタリと止めた。
キツネとインドラは、空気が変わっていくのを感じとる。
「なんだ。だったら、もうずっと『無理だ』って」
ヒカルは、さもおかしそうに笑っている。
相馬は首を傾けて、それからずいと一歩前に歩み出た。相馬の表情は、ヒカルに彼の言葉の真意を尋ねている。
キツネは、弓を刀に持ち替えた。
インドラは、拳を握りこむ。
「いや、だから、『小さな星の徒、たえるべし』って。何回も何回も。これって、無理って、ダメだって意味ですよね?」
ヒカルは、笑った。それは屈託のない、純粋で子どもらしい笑い声だった。
皆がコアトリクエの歌だけを聴いていた時、ヒカルはそれに併せて空から鳴る鈴の音にも似た奇妙な音も聴いていたのだ。それはどこか懐かしく、ヒカルには誰かの語りかけのようにも聞こえていた。
コアトリクエが、歌を止める。
相馬は体を震わせながら、幾度も頭を横に振っている。
ほらこれだと、音の鳴るのに合わせてヒカルは空を指した。その音は、相馬にも、キツネやインドラにも届いていない。
「……嘘だ、嘘だっ!」
駆け出すと、相馬は再生中の崩れたコアトリクエの体に飛び込んだ。
「お前に聴こえて、我々に聴こえぬはずがあろうか!」
相馬の体は、コアトリクエの肉に包まれていく。彼は自身も神と同化することで、空からの声を聴こうと試みたのだ。
コアトリクエから漂う余りの臭気に、キツネは袖で口元を隠す。
インドラは、周囲に散らばっていたコアトリクエの肉が集まっていくのを見た。
(恐らく無限に再生する。だが体の造り自体は、地上の生き物のそれを超えてはいない)
インドラは、キツネの名を呼んだ。
その呼びかけが、核を諦めるように自分を説得するものだとキツネは気付いていた。
「……背に腹は変えられん」
キツネは核よりも、いち早くアナザーを倒す道を選ぶ。核は、別の機会を待てばいい。だがアオイのことは、そうはいかなかった。いち早く、無事を確認しなければ。
ヒカルは目を閉じて、声に耳を澄ませてみた。ずっとコアトリクエの歌の一部だと思っていたものが、本当は別のものだったとは――。
(でも、じゃあ誰が――?)
ヒカルの問いに、答える者はいない。
来るぞと、インドラが叫んだ。
キツネが振るった刃から放たれた鋭い水流が、コアトリクエに向かう。
コアトリクエの体は真っ二つに切断され、その切断面は凍り付いた。ギャアと、それは人間のように泣く。
(お前が何故弱いか、教えてやる)
キツネの目には、インドラとヒカルの姿が映っていた。彼女は今、二人を通して自分を見ている。
(この状況にあっても尚、躊躇するからだ。覚悟が、足りないからだ)
「――覚悟もないやつが、闘いの場に出てくるな!」
自分自身に向けて言い放つと、キツネは両の手を打ち付けた。
上半身と下半身とに分かれて地面に落ちたコアトリクエの体に、氷の刃が突き刺さる。それは体に大きな穴を開けた後、水に姿を変えて体内へと留まった。コアトリクエの体は、次第にぶくぶくと膨れていく。
さらにコアトリクエの上空からは、まるで引き寄せられるように一筋の光が落ちてくる。インドラの雷だ。それは体を貫き、引き裂いて、体中の水分という水分を蒸発させていった。
焦げ付いた肉片の散らばる中、ヒカルは尚も動く物を見る。コアトリクエは死んでいない。
二人が核の力を使いこなして闘う中、ヒカルは自分にできることはないかと考えた。自分だけが出来ることはないか。
ふと掌を眺めて、ヒカルは思い出す。自分の戦い方は、いつだって同じはずだと。
インドラは呼吸を整えるキツネに横目を向けて、彼女の覚悟を思っていた。
コアトリクエは、幾人もの人間の命を取り込んでいる。その事実に気付いても、彼らを助け出す方法を見出すことは容易ではなかった。時間は、刻々と過ぎていく。このままでは、大勢の人間が犠牲になる。
キツネは最初から一貫して、最小の犠牲と引き換えに多数を救おうとしているのだ。
(胸を痛むるは容易いが、それでは誰も救えない)
インドラには生徒と、南城とを助けたいという思いがある。そのための時間も選択肢も限られていることは、初めから分かり切っていたことだった。
(謝罪するは俺の方だな。覚悟がなかったのは、俺だ)
インドラは両腕のガントレットを外すと、それを後方へ放り投げた。ガントレットは雪の上にドサリと音を立てて落ちると、次第に光を放ちながら消えていく。
コアトリクエは、既に半分程が再生していた。一つの頭で人の悲鳴に似た声を上げながら、もう一つの頭では歌を歌う。何処からともなく、相馬の笑い声が聞こえている。
インドラは、構えを取った。
しかし、先に動いたのはヒカルの方だ。ヒカルは既に、コアトリクエの上空にいた。彼が纏っているスーツの両腕は、赤い光を強く放っている。
咄嗟にキツネが、コアトリクエの周囲に水と氷とで結界を張った。
インドラの脳裏には、かつての闘いの記憶が蘇る。
ヒカルは叫び、両拳をコアトリクエの上に叩き付けた。