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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
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3-9 unmask ⑧



 同時刻。


 アオイは、林の中を逃げ惑っていた。何処まで走っても、耳にはルシエルの声が届く。


 今の生活を守るために、アオイは自分の過去と決着を着けるつもりで此処へ来ていた。しかしそれは、甘い考えだったと思い知る。あの男は、自分を手放すつもりなどないのだ。


 歌は変わらず響き続け、空からは人類への導きが鳴り続けている。アナザーが動き始めたと思われる振動も聞こえるようになり、アオイは酷く焦りを覚えていた。このままでは、無関係の人間が大勢犠牲になってしまう。


(私は……また、同じことを……)


 自分の無力さを痛感するアオイには、涙すら流せずにいた。


 やがて木の根に足を取られて、アオイは地面に倒れ込む。起き上がろうとしたところで、耳元には彼女を呼ぶ声が響いた。


 アオイは咄嗟に、銃を構える。


「イリス。怪我は、ないかい?」


 パンッと、音がした。それは、何処か遠くの空に消えていった。


 アオイの前にはルシエル――青年姿の中林が立っていて、彼は優しい眼差しで彼女に手を差し伸べている。


 来ないでと、アオイは叫んだ。


「おいで、イリス。震えているね。ここは寒い」


 アオイの手の中にある銃を、中林は両手で包み込むようにして奪い取った。そうすることで、中林はアオイを安心させたつもりでいるのだ。アオイにとっては、恐怖以外のなんでもないのだが。


 来ないでと、アオイの口が震える。それは最早、言葉にすらなっていない。


「イリス。どうして私が、今まで君を待っていたと思う?」


 会うだけならばいつでも可能だったのだと、中林は付け足した。それはアオイを、一層の恐怖に陥れた。


 中林の手がアオイの髪を分けて、右の耳に触れる。


 アオイは恐怖の余り、呼吸の仕方すら忘れてしまったように感じていた。


「いいかい? イリス。君は、未来のイヴになる。新たな時代の訪れだ。そのための子どもを産む。君は、可能性を宿した器なんだよ」


 アオイは辛うじて、唇を軽く動かす。それは言葉にはならなかったが、彼女の感じている困惑と恐怖と絶望とを示すには充分過ぎる程だった。


 中林は、アオイの傍へ片膝を着く。


 アオイは反射的に、地面の草木を指で掴むようにして必死に身を起こし、再び走り出す。


 中林は、直ぐにその後を追った。


 アオイは全力で駆けているつもりでいたが、実際のそれは何処か覚束なく、普段のような力強さを感じさせるものではなかった。まるで初めて陸に上がった魚のように、彼女の脚は力なくふら付いている。


 中林はその後ろを、ゆっくりと歩いていく。二人の距離は、確実に縮んでいる。


 三分と経たずに、アオイの脚は止まっていた。目の前に現れた大木が、暗闇の中で巨大な壁のように映ったのだ。


 木を背にして、アオイは中林の方へ振り返る。


 中林は直ぐにアオイに追いつくと、彼女に手を伸ばした。


「嫌っ!」


 小さく声を上げて、アオイが中林の手から逃れようと身を捩る。肩を掴もうとした中林の手はアオイの上着を強く掴み、そのまま二人は揉み合いになった。


 上着の前が開いて、アオイのシャツのボタンがブチブチと千切れる。


 乱暴を働くつもりのなかった中林は、思わず手を止めて心配そうにアオイの顔を覗き込んだ。


「イリス。すまない! すまない。怖かったね。私は……」


 ふと中林は、アオイの体に傷が残っていることに気付いた。鎖骨の周辺や胸元に、痣のような小さな痕。林の暗がりの中でも、中林の目はそれをハッキリと捉えている。


 そしてそれが何であるか理解するなり、中林は肩を震わせだした。


「なんと……なんという……!」


 中林の声が、段々と怒気を孕んでいく。


 アオイには理由が分からず、彼女は顔を背けて目をぎゅうっと閉じた。


「イリス! お前は……!」


 アオイに顔を近づけた途端、風を切る僅かな音と共に、中林の後頭部には小さな穴が開く。


 中林は声も無く、ドサリと地面に倒れ込んだ。


 足元に中林の頭が転がっていると気付いて、アオイは恐怖から弾かれるようにその場を退く。目を閉じている間に、彼は突然倒れたのだ。


 逃げなければと自分に言い聞かせ、アオイは足を引きずる様に中林から距離をとっていく。恐怖のために顔は中林の方へ向けたまま、彼女は無意識に元来た方へ後退し始めた。


 すると直ぐに、アオイは後ろから体を抱かれた。驚き固まっている間に抱き上げられ、フワフワと飛ぶような感覚の後でアオイの足は再び地面に着地する。彼女の目に映る中林の姿は、先程よりも小さくなっていた。


「アオイさん」


 耳元で、声がする。淡路だ。


 相手が淡路だと分かると、アオイは脱力して彼に体を預けた。脚には力が入らず、彼女は立つこともままならない。


 淡路はそんなアオイの体を左腕に抱いて、右腕には銃を携えたまま、目は前方で倒れている中林に向けられている。


 頭を狙った。手応えもあった。だが、肌に張り付くような空気は、変わらずに場を満たしている。


「疲れましたね、アオイさん。少し、休みましょうか」


 淡路の声に誘導されるように、アオイは目を閉じる。どこからともなく甘い匂いがして、アオイは突然の眠気を覚えた。それから数秒と経たずに、彼女は夢の中へ――。


 アオイが眠ったのを確認してから、淡路は銃を構えた。


 前方では、ううんと唸り声を上げながら、中林が地面から起き上がっている。


 淡路は無言で、中林の背中に数発撃ち込んだ。


「あの時の……」


 ゆらりと振り向いて、中林は淡路を睨みつけた。彼の背中には幾つもの穴が開き、コートには流れる血が模様を描いている。


「お前は何者だ? 何故、我々の邪魔をする!」


 中林は右手で頭を掻きむしり、左の拳を強く握り込む。撃たれた傷は殆ど治癒し、背中の傷口からは弾が排除されている。


「その子を離せ! それがなにか、分かっているのか!」


「……そりゃあ勿論、妻ですが?」


 淡路は、腕の中で眠るアオイの額にキスをした。


 中林は激高して、声にならない声を上げている。


「そうか、そうか! お前だな? お前が奪った!」


 なんのことだと、淡路は冷めた目で中林を眺めている。淡路の目に映る中林は、隙だらけだ。いつでも撃つことは可能だが、しかし幾ら撃ったところで弾の無駄にしかならない。


「純潔を! 一体、なんだと思っている! 我々を導く血の揺り篭。命の場。それは……!」


「ああ。はいはい。なるほど」


 中林の言葉を遮って、淡路は小馬鹿にした様子で溜息をついてみせる。


「つまり、あれだろ? 処女がいい、と。居るよなあ、そういう奴」


 淡路は横目で、アオイに目を向けた。彼女の胸元には、確かに自分が付けた痕らしきものが残っている。


 妙だなと、淡路は心の中で呟いた。アオイの体質ならば、数時間前に付けた痕が残っているはずがないのだ。半ば向島避け、半ば実験がてらつけたものが、こんなところで結果を出すとは。


「お前は! 自分が何を……!」


「あー。はいはい。うるせえなあ。……処女だろうが、なかろうが、相手にされなきゃ一緒だろ?」


「あああぁぁぁああぁっ!」


 淡路に煽られて、中林が飛び出してくる。


 それに合わせて小さな塊を放ると、淡路は中林に背を向けてアオイを抱えたまま走り出した。


 カチッという小さな音。それに続く、閃光と衝撃音。


 視覚と聴覚とを奪われ、中林はその場に倒れ込む。


 淡路は林を突き抜けてコースの端に止められていたスノーモービルに跨ると、アオイを抱えたまま山麗方向へと向かって走らせ始めた。彼は冷静に、限界まで速度を上げていく。先程の音が、雪崩を誘発する可能性があるからだ。


「イリス!」


 這うようにして林を出ると、遠ざかる人影を目にして中林は涙を流した。


「全ては……全てはあの男だ! イリス。私の可愛い、イリス。ああ、耐えられない! こんなことには……!」


 中林は前方の雪面へ向けて、輝く塊を放った。それは、アナザーの核を真似て中林が自作したフェイクだ。


 後方でなにかが爆発する音を聞き、淡路は反射的に車をコースの端へと寄せていく。


 次の瞬間、音が消えさった。


 淡路は、アオイを抱えて林へ飛び込む。数秒前まで彼らを乗せていたスノーモービルは、大量の雪に飲み込まれ押し流されていく。


 淡路とアオイは中林の視界から消え、二人で林の中の斜面を転がり落ちていった。淡路はアオイの体を、きつく抱えている。


 数分後。雪崩れた斜面を、中林は満足そうな目で見つめていた。一方で彼は、暴力的で理性的でない自分の行動を今になって恥じてもいる。


「だがしかし、これでいい。人ならば死ぬ……」


 中林は、ゆっくりと斜面を降り始めた。彼の目は、アオイの姿を探していた。


 コアトリクエの歌は、まだ中林の耳に届いている。


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