3-9 unmask ⑥
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同時刻。
アオイは、林の中を歩いていた。雪崩があったコースからは随分と離れているが、それでも彼女は周囲から不穏な音がする度に恐怖を覚えている。
地響きは、少し前から止んでいた。アナザーは動きを止めたようだが、林の中からはその姿を確認することが出来ない。
アオイは山頂ではなく、林を抜けて別の場所へと向かっていた。夜だというのに、彼女の足は暗い木々の間を迷いなく進んでいく。
それからしばらく歩いたところで、アオイはようやく足を止めた。
林の中に、不自然な空間がぽっかりと開いている。車が二、三台は停められる程の広さ。かつてはこの何処かに、出入口となるハッチが存在していた。アオイはそれを、確かに覚えている。
不意に名前を呼ばれたように思って、アオイは振り向いた。そこには、分厚いコートを纏った青年姿の中林が立っていた。中林は初めから、山頂ではなくこの場所に居たのだ。
「イリス……」
中林は、アオイに呼びかける。
アオイは中林と向き合うと、目を逸らさずに彼の顔を確認した。それは確かに、あのクリスマスの日にアドベンチャーニューワールドで会った人物だった。
「君は、自分の足で此処へ戻ってきた。私には、こうなることが分かっていた」
中林の声は、不快なものとしてアオイの耳に響く。
「悪いけれど、あなたを喜ばせるためじゃない。話をつけるために来たの」
アオイは無意識に後ろへ一歩下がって、中林と距離を取っている。
中林はそれに気付いて、心を痛めた。
「記憶が戻ったと思ったが……まだ全てではないらしい。君は、それを知るために来たのだろう? イリス。君は、歌を聞いたね?」
彼女の名前を呼ぶ中林の声には、愛情が込められていた。それは、アオイには不愉快なものとして伝わっていたが。
アオイは決意して、銃を構える。
中林は、それも悲しく思った。
「昔、ここに学校があった。それは私の……人類の夢を集めた場所だった。イリス。覚えているだろう? 夢の場所。楽園だ」
アオイは、静かに頷いて応えた。
今から十年以上前、この一帯には施設があった。そしてそれは、あの大地震の際に完全に失われていた。
「あれは、未曾有の大災害だ。失われたものは、数知れない。多くの命が失われ、多くの才能が散った。この国が歩む筈だった未来も」
「……そうね。それと引き換えに、私は生きている」
アオイの心は、もう痛んでいなかった。それは過去を正当化している訳ではなく、正面から受け止める覚悟を決めたからだった。
アオイは、過去に起きた大地震の原因が自分にあることを知っている。そしてそれにより、かつてこの場所にあった施設――それはエコールと呼ばれる学校だった――が消失したことも理解している。
「ああ、イリス。まさか君は、私がそれを咎めていると思ってはいないだろうか? 私が、君を恨んでいる、と」
中林は悲しげな瞳で、アオイを見つめている。
「あなたが――」
アオイがそう口にしかけた時、中林がそれを遮った。彼はアオイに、過去の名前で自分を呼ぶように求める。
アオイは少しの間を置いて、それから中林のことを「ルシエル」と呼んだ。それは彼の本名ではなく、二人の間でのみ交わされていた呼び名だった。
アオイと中林は今、互いに相手の姿に過去がダブって見えている。二人には、互いにその存在を必要としていた時があったのだ。
「ルシエル。なぜ、私を……私たちを作ったの?」
アオイの脳裏には、自分と同じ姿をした別の少女たちの姿が浮かんでいた。共に生まれた二人の少女。彼女たちは、成長することなく死んでしまった。
「イリス。君は私を、ルシエル――「空」と呼んだ。耳にする度、私がどんな気持ちでいたか分かるかい? 喜びしかなかった。私には、幸せしかなかった」
「……お願い。答えて」
「答えなど、分かり切っている。歌は、空に届いた。君には、天上の声も聞こえている。そうだね?」
アオイは、無言で応えた。それは、中林の言葉を肯定していた。
コアトリクエの歌に続いて、空からは音が響いている。先程からアオイの耳には、コアトリクエに応える者の声が聞こえ続けているのだ。
コアトリクエの歌は天上の存在に向けて、人類が更なる高みを目指す方法を尋ねている。空は、それに答えを返していた。ただそれは、一部の者にしか聞き取ることが出来ないために、虚しく空気を揺らしていたが。
コアトリクエは、空に言葉を届けることに成功した。それは彼ら天文サークルの目指す、宇宙との通信を指している。しかし悲劇的なことに、彼らは宇宙からのメッセージを受信する方法を持たなかったのだ。
「ルシエル。お願い。もう、私たちに構わないで欲しいの」
アオイは、言葉を吐き出す。
中林は、右の眉を僅かに持ち上げた。
「罰なら受ける。お願い。私はもう、前を向いて生きたい。……あの子の未来を、見届けたいの」
アオイの声は、震えていた。自分がなにを言っているのか、彼女には理解できていた。
中林は頭に手を当てて、それから大きく首を横に振る。
「イリス。ああ、イリス。君は、分かっていないのか! 何故私が、君を待っていたか。何故、君が生まれたのか」
それから中林は、アオイの方へ足を踏み出した。
「イリス。君は、人を超越した存在」
「……来ないで」
「君は、全ての可能性」
「来ないで!」
アオイの手の中で、大きな振動があった。
銃口の先で、中林が腹を押さえて片膝をつく。
アオイは、自分が震えていると気付いた。ガタガタと、手元が激しく揺れている。それは後悔ではなく、単純な恐怖によるものだ。
中林は立ち上がると、腹を押さえていた手を横に広げて無事であることを示して見せる。彼の腹の傷は、既に塞がりかけていた。彼はクリスマスの日にアオイの血を体内に取り込み、彼女の力の一部を得ていたのだった。
「私の……可愛い、イリス――」
心の底から感情を込めた声で、中林はアオイの名を呼ぶ。
体中に悪寒が走って、アオイは言葉を失った。中林に背を向けると、彼女は一目散に走り出す。足は無意識に、意思に反して頂上へ向かってしまっている。
逃げていくアオイの背を見つめ、中林は溜息を漏らした。愛情は、いつも伝わらない。
中林はアオイを追って、林の中を歩み始めた。