3-9 unmask ⑤
*
同時刻。
キツネが目を覚ますと、彼女は自分が屋根の下に寝かされていることに気付いた。土と木の匂いの立ち込める中で、キツネは上半身を起こす。体の下には、覚えのないコートが敷かれている。
「……何故、助けた?」
キツネの視線の先には、壁に体を預けて積まれた木材の上に腰掛けているインドラの姿があった。彼は上着を着ておらず、黒いシャツに同色のベスト姿だ。
インドラは、「相馬は消えた」と答えた。それはキツネの質問の答えにはなっていなかったが、彼は皆を助けようとしたのだと伝えたつもりでいる。
キツネは辺りを見回して、そこが資材置き場なのだと理解した。先程の場所までの正確な距離は分からないが、相当移動したのだろうと彼女は推測している。アナザーの核の反応が、随分と離れているからだ。
アナザーの気配は、一つの場所に留まっている。一時的に、動きを止めているのだろうか。
キツネは、自分が草履を片方無くしていることに気付いた。情けない事だと、彼女は面の奥で唇を噛む。あの雪崩の瞬間、体が強張って咄嗟に動くことが出来なかった。そればかりか、インドラに助けられてしまうとは――。
キツネはさらに、強い不安を覚えていた。目覚めた時、彼女の面は外されていなかった。だがそれは、自分の正体が暴かれていないことと同義ではない。
しかしインドラは、キツネの面の下を見てはいなかった。質問されなかったので、彼はそれをキツネに伝えはしなかったが。
「なにが望みだ?」
キツネが問う。
意図を理解できず、インドラは応えない。
「何故、助けた? なにか、要求があるからだ。なにが望みだ?」
キツネの左手の傍で、空気がキラキラと輝き揺れている。やがてそれは、刀へと姿を変えていく。
キツネの刀は彼女の能力で生み出されているものなのだと、インドラは理解した。それは、彼の両腕のガントレットについても同じである。
インドラは、返答に困っていた。彼は、要求があるから助けた訳ではない。体は、勝手に動いていた。だがしかし、要求が丸きりないというわけでもない。
「キツネ。君は、どこまで知っている?」
「……なんのことだ?」
インドラは、小屋の隅を指さした。
キツネの視界の端で、閃光が走る。音が遅れて聞こえ、やがて小屋の隅からは、置かれていた資材の一部が焦げて嫌な臭いを放ちだした。まるでそこだけに、雷でも落ちたようだ。
インドラの指が、キツネに向いた。
「次は、君に落とす。……君の知っていることを、俺は知る必要がある」
「脅すか、インドラ。そんな性格でもないと思うたが、中々に変わるじゃないか」
皮肉る様に言い放って、キツネは笑う。しかし面の奥は、決して笑ってはいなかった。インドラの雷は、自分の刃よりも早く届く。
インドラのガスマスクの下は変わらず無表情だったが、彼の心は僅かに揺れていた。自分らしからぬことをしている自覚はある。しかしそれ以上に、知らねばならないという思いが強くある。
インドラの脳裏には、古く狭いながらも暮らし慣れた我が家と、愛くるしい小さな同居人の姿が浮かぶ。
「俺にも、まだ死ねない理由ができた」
南城がミカンを抱いて、縁側で歌を口ずさむ――そこへ帰るのだと、インドラは心の中で呟いた。
「言え、キツネ。何故、アナザーを狩る? アナザーの正体とはなんだ?」
インドラは語気を強める。
キツネの額からは、汗が零れ落ちた。インドラは、本気なのだ。
口を開こうとして、それからキツネは天を仰ぐ。
「――悪いが、そちらの男に聞かせる理由はない」
キツネの言葉で別の人間の存在に気づき、インドラは横目で小屋の外を見た。
そんなインドラの視線に応えるように、パラパラと乾いた音が聞こえだす。続いて右から左へサーッと撫でられるように地面が抉れて、土が舞う。
インドラとキツネは、反射的に積まれた資材の裏側へ跳んでいた。銃撃されている。二人がそれを理解したのは、資材小屋の壁に無数の小さな穴が開くのを見てからだ。
アナザーの気配ではない。相手は、人間だ。
キツネは既に刀の柄に手を置いていて、彼女はタイミングを伺っていた。
(先輩が居る時点で、あの男の存在もあると考えるべきだったな)
キツネには、暗闇の向こうの人物に予想がついている。
インドラも相手の出方を伺うが、彼は頭の片隅で別のことを考えていた。隣りにいるキツネの姿に、どことなく別の誰かが重なったように思ったのだ。
インドラは、小声でキツネに呼びかけた。
「俺が、出る。話は後だ。いいな、君は……」
「知ったことか!」
バサリと、キツネがなにかを宙に放った。
再び乾いた音がして、撃たれた布が宙で踊っている。
インドラは、直ぐにそれが自分のコートだと理解した。それは彼が、キツネの体の下に敷いてやっていたものだ。キツネは資材の裏へ逃げ込む際に、それも掴んでいたのだった。
「さらばだ!」
キツネの声が、耳に届く。インドラが顔を上げると、キツネは既に離れた位置へ跳んでいた。コートを囮にして、反対の方へ逃げたようだ。
地面に落ちた穴だらけのコートと遠くなっていくキツネとを交互に見て、インドラは疲れを覚えた。話はまだ途中で、コートは買ったばかりだというのに――。
それからあることに気付いて、インドラはゆっくりと立ち上がった。暗闇に潜む相手は、キツネを追おうとしていない。恐らく、自分が目的なのだ。
「用件を、聞こう」
インドラは撃たれる可能性も考えていたが、銃撃は続かなかった。
少しして、存在を主張するようにガサガサと音を立てながら、林から男が姿を現す。彼は頭からフード付きのポンチョを目深に被っていて、その手には映画にでも出てくるようなアサルトライフルがあった。ライフルは、白い布で巻かれている。
「流石ですね。話が早くて、助かりますよ」
声を耳にして、インドラは男が淡路だと気付く。
(そうか、東條の姉も来ていたな)
インドラは、公安の人間がやってきていることを思い出した。彼らがいるということは、事前にアナザーに関する情報があったのかもしれない。
相手が淡路ならと、インドラは拳を握りしめた。体格のよい淡路ならば、少し乱暴な方法で気絶させても死ぬことはないだろうと考えたのだ。インドラは淡路を気絶させて、直ぐにキツネを追うつもりでいる。
「少し、話をしませんか?」
「直に、アナザーが動きだす」
「でしょうね。でも、それは関係のないことですから。僕は、仕事で来ている訳じゃない」
今日は有給休暇を取得しているのだと、淡路は笑っている。
インドラには、淡路の言葉が理解できなかった。彼はまるで、アナザーによる被害が出ても構わないような口ぶりだ。
「悪いが、先を急がせてもらう」
邪魔をするならと、インドラは構えを取った。
淡路には、警戒する素振りもない。
「ああ。それは、止めた方がいいでしょうね。インドラ――いえ、北上先生」
名前を呼ばれて、インドラ――北上は息を飲んだ。
淡路はそんな北上の心を読んだかのように、余裕を見せて笑っている。
「折角、キツネを遠ざけたんだ。感謝してもらっても、いいくらいですよ。あなたと話がしたい。勿論、構いませんよね?」
「……なんの話が?」
北上はガスマスクを外して、淡路に問いかけた。
淡路も同じようにフードを外すと、肩から銃を下げたまま両手を広げて敵意がないことを示して見せる。
「先生。僕と、手を組みませんか?」
予想していなかった言葉に、北上は言葉を詰まらせる。
北上が困惑しているのを感じ取って、淡路は笑った。それは、相手の反応が想定内のことだからだった。
淡路は、公安の捜査線上に北上の名前は浮上していないと告げる。北上の正体を知るのは自分だけで、声を掛けたのも淡路個人の意思だという。
さらに淡路は北上に、彼の正体がバレないように出来る限りの協力をすると申し出た。
「僕も色々とあって、協力者が欲しいところなんですよ。それに先生だって、こちらの動きは知りたいはずだ」
「都合の良い話ばかりに聞こえる」
「まあ、そんなに警戒しないでください。こう見えて、僕も必死です。でも、悪くない話だと思いますよ。……先生だって、今の職場に居られなくなるとお困りになるのでは?」
淡路は、ワザとらしく首を傾げている。笑顔だが、彼の言葉は脅しだ。
北上は、南城とミカンの姿を思い浮かべる。
困ったことになったなと、北上は心の中で呟いた。