3-9 unmask ①
二〇×二年 二月 四日 金曜日
二十時四十五分。
雪上車を走らせながら、相馬は幾度も振り返り交互に左右後方の窓の外を睨んだ。キツネの面を着けた少年――に相馬は見えていた――の姿は、いつの間にか見失ってしまった。しかし、追跡を諦めたようには思えない。
(高柳……)
心の中で親友の名を呟いて、相馬は首を竦めるようにして山頂へ目を向けた。スキーのコースにはナイター用の電灯が灯っているが、風が出てきた為か視界は段々と悪くなってきている。
道が狭まってきていることに気付き、相馬は何処かで車を捨てなければならないと覚悟した。元より、山頂まで車で向かうことは出来ない。
コースの上を走る車の左右には、黒い林が広がっている。相馬はその林に目をやって、下車後はそこで身を隠しながら移動することを思いついた。このままコース上を移動するのは、余りにも無防備だ。
(先生。あなたの仰る通りです。やはり、キツネ面が来た)
ハンドルを握る相馬の手に、グッと力が籠る。
ハンターの登場は、相馬にも予想出来ていた。そして中林からも、ハンターについての警告を受けている。
相馬は、唇の端を舐めた。
(本当に、神に近づけるのなら……。恐らく、ハンターも倒せる)
相馬が、そんな思いを抱いた時。雪上車の頭上から、金属を叩くような甲高い音がした。
キツネが来たのだと理解して、相馬はアクセルを踏み込み左右にハンドルを振る。キツネを振り落そうというのだ。しかし、音は鳴りやまない。
やがて、左後方で不吉な音がした。キャタピラに何か巻き込まれたような、鈍い悲鳴。
相馬はそれがキツネであると期待したが、実際には木の枝が投げ込まれただけだった。
ハンドルの利かなくなった車を林の傍で無理矢理に停車させると、相馬は覚悟して車から飛び出した。そうして彼は一目散に林へと飛び込み、身を隠しながら暗闇の中を進んでいく。
(ここでは、ダメだ。もっと……)
「――おい」
不意に耳元で呼び止められて、相馬は恐怖に身が縮こまり、息を止めた。
「音を止める方法を言え」
キツネの名を叫ぼうとした相馬の声は、言葉にならず消えていく。
いつの間にか相馬の体は地面に引き倒されていて、彼の鼻先には暗闇でも薄らと光る刃が突き付けられていた。キツネの体は暗がりに同化していて、刃を握る手と面の白さだけが闇の中にぽっかりと浮かんでいる。
「聴こえていないのか? 音を止める方法だ。答えろ。……次は、殺す」
殺気は刃からも、前方の暗闇からも相馬を襲う。キツネは本気なのだと、相馬は肌で感じとる。
「……キツネよ。君も、神を目指しているのだろう? ならば、あの歌が一体どういうものか、分かるはずではないか? 君にも、聴こえるはずだ」
言い終わるなり、相馬は熱と鋭い痛みを覚えて鼻先を手で押さえた。しかし彼の鼻は、既にそこには付いていなかった。
雪上に、ぽとりと肉の塊が落ちる。
「音を、止めろ。コアトリクエ」
相馬の目に映る刃は、先程からその位置を変えてはいなかった。キツネは瞬きするより早く、彼の鼻を切り落としたのだ。
流れ出る温かい液体を掌に感じながら、相馬は肩を震わせる。
「我々……人類の、進化に関わることだ。キツネ。君は、神になってなにを望む……?」
相馬の体に、再び痛みが走った。彼の傍らには、切り落とされた指が散らばっている。
それでも相馬は、キツネに同じことを問いかけた。
キツネは相馬の目に見えるよう、ゆっくりと刀を振り上げる。
「私が死ねば、音は止まらないぞ!」
白銀の刃が、相馬の首元でピタリと動きを止めた。
相馬は力が抜けていくのを覚えたが、それでも奥歯を噛み締めて堪え、キツネに同じ質問を繰り返す。神になって一体なにを望むのか、と。
「……コアトリクエ。お前は、まるで自分こそが相応しいとでも言いたげだ。だがお前に、そんな価値があるだろうか」
キツネは相馬の肩に切っ先を当てると、徐々に力を込めて突き刺していく。
相馬は太ももを毟る様にして残された指に力を込めながら、目を引ん剝いて痛みに堪えている。その口元からは、時折うめき声が漏れ出ていた。
「――来たか」
相馬から刀を引き抜くと、キツネはそれを暗闇へ向けて振るった。
それに合わせるように、林の奥で黒い塊が跳躍する。それは一瞬で距離を縮め、相馬とキツネの間にはガスマスクを身に着けた長身の男が躍り出た。
「インドラ!」
キツネが振り上げた刀と、受け止めるインドラのガントレットとの間に火花が散る。
相馬は後ろへ大きく仰け反り倒れると、恐怖で動かない脚をバタつかせながら雪の中で藻掻いた。
「随分、私の邪魔をするのが好きじゃないか」
キツネとインドラは、距離をとって対峙した。互いに半身は暗闇に同化し、刃とガントレットは妖しく光をはなっている。
「君にしては、乱暴だ。……人だぞ?」
珍しく、インドラは怒りを露わにしている。それに気付くと、キツネは高らかに笑った。
「人、か。それが、人か? キサマの目は節穴だ」
暗がりに、キツネの白い指が浮かぶ。それは、インドラの後ろで今なお藻掻いている相馬を指している。
インドラは、相馬の鼻と指が僅かに再生し始めていることに気付いた。
そして相馬自身も、インドラとキツネの視線でその事実に気付く。
「ああ! 先生。これが、これが……!」
相馬にとって、自身の身に起きている異変は奇跡と同じことだった。彼は今、人の体をして、人を越えた存在になりつつあるのだ。
歓喜の声を上げて、相馬は跳び上がり林の中を駆けていく。
相馬を背で見送って、インドラはキツネに対して構えを取った。
馬鹿な男だと、キツネは吐き捨てる。
「見ただろう? あれが人か? 否! ……音を止めさせねば、大勢の犠牲がでる」
キツネの意図は、インドラにも読めていた。室内で気を失った人間ばかりではないのだ。スキー場内には、まだ大勢の人が吹き曝しの雪上で放置されている。多を救うために、キツネは相馬を殺めようとしているのだ。
なにより二人は、相馬から核の気配がしないことに気付いていた。それは、アナザーが別に居る可能性を示唆している。
(なにが人で、人でないか――。そんなことは、俺にも分からん)
インドラの心の中の呟きは、彼自身にも向けられていた。いつの間にか力を手に入れたこの自分の体が、本当に人と呼べるものかは分からない。
迷いを払う様に、インドラは両手のガントレットを打ち合わせる。空気が、震えた。
「インドラ。止めるべきは、本当に私か?」
刀を腰に収めると、キツネは勢いを着けて跳ぶ。
追おうとしたインドラの脚は、地面から突き出た氷の刃に阻まれた。刃は三方向から、彼の下半身を貫こうとする。
インドラは、素早く刃を拳で叩き割った。彼が顔を上げると、前方ではキツネが既に相馬に迫ろうとしている。
相馬は林から抜け出すと、頂上へと手をかざした。
「先生! ……同士よ!」
後ろから迫るキツネに気付かず、相馬は声を張り上げる。
相馬の脳裏には、彼の所属する天文サークルのメンバーたちが浮かんでいた。その中には、親友であり共に曲を作り上げた高柳の姿もある。
相馬の背後から、刀を手にしたキツネが姿を現した。
(先ずは、吐かせる――)
腕を切り落とそうと、キツネが刀を振り下ろす。
驚いた相馬が雪に足を取られて転び、彼の腕は寸でのところで切断を免れた。
尻もちをついたままズルズルとキツネから距離を置いて、相馬は頂上へ目を向けている。彼は、訪れを待っていた。
相馬の様子を不審に思いながら、キツネは刀を構えたまま彼ににじり寄った。時間は、限られている。
「同士よ……っ!」
再び、相馬が声を張り上げた。しかし、彼に応えるは風ばかり。
見捨てられたのだろうと、キツネは相馬を憐れんだ。相馬は彼の慕う人々でなく、一面の雪に囲まれて死ぬ。
時間がないと、キツネは自分に言い聞かせた。イベント会場の傍には、まだアオイが居る。
(早く、先輩の元へ戻らねば……)
刀を収めると、キツネは相馬に向けて手をかざした。氷の刃で相馬の動きを止めようというのだ。
しかしキツネの後ろからは、インドラが電撃を纏った拳を振り上げて飛び出してくる。
キツネがインドラに気付き刀に手を伸ばした時、彼らの頭上には黒い影が海のように広がった。
キツネは後方に跳び、インドラは相馬を掴んで前方へ転がる。
ズンッと音がして、大量の雪が舞い上がった。彼らの元居た場所には、相馬が乗り捨てた雪上車が横向きで転がされている。
「――また会ったな。少年」
雪を払って、インドラは立ち上がる。
キツネとインドラの目は、シルバーのスーツを身に着けたヘカトンケイルと呼ばれるハンターの姿を捉えていた。彼は少し離れた場所から、雪上車を投げて寄こしたのだ。
ああ! と、相馬が声を上げた。それは、ヘカトンケイルに向けられたものではなかった。相馬の目は、山の上へ向けられている。
インドラとキツネも、相馬の視線の先へ目を向けた。ヘカトンケイルも、同じ場所を見ている。彼らは皆、全く同じタイミングでアナザーの放つ核の気配を感じ取っていた。
巨大な影が、山の上の方で盛り上がっていくのが見える。それは地響きを立てながら、一歩、また一歩と彼らの方へ下ってきていた。
「面妖な……」
面の下で、キツネは呟いた。迫るにつれ明らかになるその影が、生き物であると理解したからだ。
相馬は喜び、両手を上げてその生き物に応えている。木々よりも背の高い、異様のもの。
キツネとヘカトンケイルの目がそれに釘付けになる中、インドラだけは辺りの異変を察知していた。大小様々な雪玉が、先程から転がり落ちてきている。前方の斜面には、雪面が弛んで皴のように見える場所が幾つもあった。
今日は暑いなと、インドラの脳内では、昼間の南城の言葉が再生されている。
「逃げろ!」
インドラは叫んだ。
キツネが、インドラの方へ振り向く。
突然、ゴウゴウと音が押し寄せて、彼らの耳からは鳴り続けていたコアトリクエの音が消えた。そしてあっと言う間に、彼らは雪崩に飲み込まれていた。