1-4 守りたいもの ③
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アナザー出現の通報を受け、アオイは銃を構えて走っていた。
現場は、つい先ほどまで滞在していた桜見川中央公園だ。車に乗り込みエンジンを掛けた途端に、無線がけたたましく騒ぎ出したのだった。
子供の悲鳴を聞きつけ、アオイは林を走り抜けて広場へと飛び込んだ。池の上に掛かった橋の袂で、数人の子供たちが泣いている。
一人が水に落ちたのを助けようと皆で手を伸ばしているようだが、どうにも様子がおかしい。落ちた子供は、まるで何かに体を捕まれているように、水の中を必死でもがいている。
「危ないから退いて!」
そう言うなり、アオイは水中に蹴りを叩きこんだ。彼女の予想通り、水とは異なる弾力が脚に返ってくる。
アナザーだ。
体に自由が戻るのを見逃さず、アオイは子供を水から引き上げた。
「君たち、水場から離れて! 向こうへ」
アオイが指差した先には、彼女が部下たちにケガ人や保護した市民を集めるように指示した管理棟がある。
あっと、子供の一人が声を漏らした。
アオイは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「ほうら。一人で行くから」
声とほぼ同時に、淡路がアオイとアナザーとの間に滑り込む。
アオイは咄嗟に、傍にいた子供を抱えて前へ飛んだ。
アオイに飛び掛かろうとした水の塊は、淡路が腰から引き抜いたナイフによって、幾層にも引き裂かれて雪崩れるように池に落ちていく。
「あ、これダメっぽいですね」
笑顔のまま、淡路はナイフを左手に持ち替えた。右手で引き抜いた銃で水中に数発打ち込んで、淡路は後ろに飛ぶ。
間一髪のところで、淡路の足は触手のように伸びてきた水の腕を逃れる。
「あーあ。早く帰って、おうちデートだったのに」
「ちょっと! 発砲許可、してないでしょう」
「嫌だなあ。一般人でもパカパカ撃ってる時代ですよ? 公務員は大変だ」
「ふざけたこと言ってないで!」
「いつでも本気ですよ」
アオイと淡路とは対照的な表情で、池に目を向けている。
池の中では、無色透明の塊がグルグルと渦を巻いていた。それは辺りの水を吸い上げながら、次第に大きく持ち上がっていく。
(これは、分が悪いな)
心の声に反して、淡路の顔にはいつもの笑顔が張り付いている。
アオイは子供たちを立たせると、震える子らを鼓舞し、走らせた。
「無理な交戦は避けて。市民を避難誘導!」
アオイは無線で指示を飛ばしながら、走り去る子供らに視線を送る。
子供らが駆け付けた部下と合流するのを見て、アオイはアナザーへ向き直った。
「一緒に逃げてくれた方が、嬉しいなあ」
「私達が、逃げるわけに行かないでしょう」
「子供と一緒にって、意味ですよ」
アオイと会話しながら、淡路の目は眼前のアナザーにだけ向けられていた。姿こそ見えないが、彼は異形の存在を彼方こちらに感じている。恐らく、池の水に混ざって、幾つも同じような者が居るに違いない。
アオイは横目で、淡路の目元を盗み見た。
「――他にも居るのね?」
呆気にとられて、淡路は一瞬、答えを躊躇う。
「否定しないってことは、合ってるのね」
「アオイさん。後ろに居るか、合流地点に向かうか……」
「退避しない。池の周囲が全部危険地帯なら、手分けしましょう」
「アオイさん」
「性格、分かってるでしょ」
分かっているから行かせたくないのだと、淡路は心の中で呟いた。アナザーとの交戦で気持ちが昂ぶっているのに加えて、物理攻撃が有効でない相手だ。アオイには、荷が勝ち過ぎる。
しかしアオイは淡路の制止を振り切って、池の脇を公園の東側に向かって走り抜けていく。
(ああ、まったく……)
アオイを追いかけるようにして伸びた水の塊を、淡路の手にしたナイフが切り裂いた。
アナザーはボトリボトリと落ちて、池の中でまた再形成しようと蠢いている。
「守らせてくれないなあ」
前髪をかき上げて、淡路は再びアナザーに対して構えた。
斬撃も、銃撃も効かない。
では、どうするか――。
「手を貸そう」
淡路の耳に飛び込んできたのは、くぐもったような、やけに低い男の声だった。
淡路が視線を向けると、池の中石に黒づくめの男が立っている。
男は黒のスラックスに黒のシャツ、サテン生地の黒いベストという出で立ちだ。その両腕には鈍い光を放つ銀色のガントレットが装着され、顔はガスマスクで覆われている。
ガスマスクのゴーグル型のレンズ部分はスモークガラスになっていて、男の表情を読み取ることは出来ない。
「……どちら様です?」
お道化て見せながら、淡路の脳裏には幾つもの捜査資料が思い起こされていた。それはここ最近、近隣の市区で目撃された奇妙な者たちについてのものだ。彼らはアナザーの出現とほぼ同時に現れ、そして一瞬にしてそれらを消し去ったという。
ガスマスクの男は、アナザーに対して構えをとった。
淡路が瞬きする間に、男は池から飛び出してきたアナザーに一撃を加えていた。腰を深く落とし、体重を乗せた、完璧な一突き。
バチバチと爆ぜるような音と、空間をねじ切るようなアナザーの悲鳴。
男の両腕に光るガントレットからは、焼け焦げたような煙が細く立ち上っている。
淡路は、新たなハンターの登場を確信した。