3-8 愛のメロディー ⑨
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眺めのいい部屋の中。カーテンを閉めて手袋を外しながら、淡路は時計に目を向ける。時刻は、二十時三十五分。予定よりも、時間がかかってしまっている。
ポケットの振動で着信に気付いて、淡路はスマートフォンを取り出した。画面には「妻」と表示されている。
「もしもし。あなたの淡路です」
上機嫌で電話に出ると、淡路は直ぐに機嫌の悪いアオイに怒鳴られた。しかし、彼にそれを気にする様子はない。
「ええ。こちらは問題ないですよ。能登は部屋です。大丈夫、怪我はありませんでした。ヒカル君もリリカちゃんも、ベッドで寝ています」
ヒカルだけは何故か廊下で眠っていたのだが、淡路はそれをアオイには伝えなかった。余計な心配をさせたくないからだ。
電話の向こうで、アオイが向島の名前を口にする。
淡路は、ちらりと部屋のソファへ目を向けた。
「グッスリですよ。……怪我? いえ。……指? ああ、大丈夫ですよ。指も顔も、どこも怪我はしていませんから」
淡路の視線の先では、向島がソファに凭れて気を失っている。人差し指に掛かったティーカップ、ソファに落ちた読みかけの本、まだほんのりと温かいティーポット――それらが、向島に訪れた悲劇がいかに突然だったかを物語っているようだ。
淡路が部屋に訪れた時、向島は既に気を失っていた。ここは他の部屋に比べて騒音の届きにくい環境ではあったが、元ピアニストとしての彼の耳の良さが仇となったようだ。
向島の閉じられた目も、ほんの僅かに開いた口元にも、停止した時間のもつ余韻がタップリと込められている。それはよくできた彫像のようで、淡路には眺めているだけで吐き気を催すように思えた。
淡路は、人形が嫌いだ。人形は、自分に似ている。
「……キツネが相馬を? インドラもですか。……そうですね。僕の方でも探してみます。ええ。恐らく何処も同じ状況ですよ。合流します」
アオイを安心させて通話を切ると、淡路は部屋を後にする。念のため、ドアは外側からも固めた。万が一外に出てこられては、仕事に支障をきたすからだ。
(キツネにインドラ……まあ、そりゃあ居るよな)
エレベーターに乗り込むと、淡路は身に着けていた雪迷彩柄のポンチョのフードを目深に被った。彼は既に、闘いの支度を整えている。
淡路の目は、鋭い光を宿していた。