3-8 愛のメロディー ⑧
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二十時二十分。
イベント会場に辿り着いたアオイの目には、大勢の人間が横になっている異様な光景が映った。アオイは、一人、また一人と声を掛けて安否を確認する。彼らは気を失っているだけで脈拍も呼吸も安定しており、直ちに命の危険がある訳ではなさそうだ。
ステージからは、音が流れてきていた。しかし、そこには誰の姿も見えない。辺りをどれだけ見渡しても、アオイは自分の他に動いている人間を見つけることが出来なかった。
倒れている人々の間を、アオイはステージへ向かって歩いていく。コアトリクエの姿は、見えない。
ステージの傍にはテレビクルーと思われる集団が倒れていて、手にしているカメラは地面を映し出している。
この状態で誰も駆け付けてこないところをみると、ホテルの中も同じような状態なのだろう。アオイはヒカルとリリカの安否について、淡路からの連絡を待っていた。
ステージの前に辿り着いた時、アオイの前には、頭から布の仮面を被った男が姿を現す。彼はシンセサイザーで檻のように囲まれたその中に隠れていて、アオイが傍へ近づくまで存在を気付かれていなかったのだ。
「――お前は、何故……」
コアトリクエは、アオイの姿に驚きを隠せずにいた。他の人間たちは皆が倒れたというのに、アオイは平気な顔をして迫ってくる。
「コアトリクエ――いえ、相馬タカシ」
アオイが公安特務課の手帳を取り出そうと、ジャケットの内側へ手を滑らせた。
その時、相馬は目ざとく、アオイの左脇のホルスターに気付く。そして撃たれると誤解した彼は、天に手を掲げて悲鳴のような笑い声を上げた。
相馬に呼応するように、音が響く。
アオイは両耳を手で塞ぐが、耳を劈くような音に驚き、彼女は反射的に目を閉じた。
相馬は彼のシンセサイザーの城から飛び出すと、ステージを降りて裏へと走り去る。彼の目は、山頂へと向けられていた。
「待ちなさい……っ!」
音に慣れると、アオイはすぐに相馬の後を追ってステージを駆け下りた。音は未だ鳴り続けているが、既に彼女の耳には届いていない。
アオイがステージの裏へ出ると、彼女の視線の先には雪上車に乗り込もうとする相馬の姿が映った。移動されると厄介だと、アオイは銃を引き抜き相馬に止まるよう警告する。
相馬は雪上車の扉を開けると、アオイの方へ手を向けてなにか合図を送った。
嫌な予感を覚えてアオイが足を止めると、彼女の足元の雪がグラグラと揺れ出し、中からは異物の塊が這い出てくる。頭だけが肥大した、蛇のように見える塊。それらは体をうねらせて、アオイへ向かう。
(アナザー……!)
脚を掴まれて動きを止められ、アオイは銃口をアナザーへと向けた。
しかし、アオイが引き金を引くより早く、彼女の足元には何処からともなく氷の矢が突き刺さる。アオイには、それに見覚えがあった。
「キツネ!」
振り向くと、ステージの上空からキツネが現れた。彼女はアオイから少し離れた所へ着地すると、無言で頭を下げて一礼する。
アオイの足元では、凍り付いたアナザーが粉々に散っていく。
キツネはいつもの白装束の上から膝丈ほどのケープマントを羽織っていて、脇のスリットから出した腕は腰の刀をいつでも抜けるよう備えられていた。そのフード付きの黒いマントは、雪原では異様なものとして浮かぶ。
「キツネ。あなた……」
アオイの言葉を手で制すると、キツネは刀を抜いて前方の相馬へと斬撃を放つ。鋭い水流が相馬の元へ伸びていき、それは空中で氷の刃に変化した。
それを寸での所で避けて、相馬は命からがら車へ乗り込んだ。そうして彼はキツネに誘導されていることに気付かぬまま、雪上車を走らせ始める。
キツネはアオイの方へ顔を向けると、刀を収めて地面に向けて手をかざす。
アオイが戸惑う間に、彼女の体は地上から突き出た氷の壁の中に囚われた。
「ちょっと! 出して!」
氷の壁を叩くアオイに深々頭を下げて、キツネは跳ぶ。彼女は、相馬を追っている。
(私を、アナザーから遠ざけようとしている……? どうして)
困惑するアオイ。そんな彼女に思考の整理を許さぬように、後方からは凄まじい轟音が鳴り響く。雷でも落ちたようなその音に、アオイは耳を塞いだ。
音が地面を伝わって、アオイの足元は地震のように激しく揺れる。立つことがままならなくなり膝を着くと、彼女を取り巻いていた氷の壁に幾本もの亀裂が走った。
崩れて光を放ちながら消えていく、氷粒の雨の中。振り向いたアオイの視線の先には、崩れて焦げ付いたステージとその上に立つ人影がある。
「……音が止まない」
人影は呟くと、ステージを降りてアオイの方へ近づいてくる。
長身をダブルのオーバーコートに包み、腕にはシルバーのガントレット。そして顔には、ガスマスク――。
「インドラ! あなたまで」
アオイの声に反応し、インドラは彼女の方をチラリと見やる。しかし彼は歩を止めぬまま軽く会釈してアオイの元を通り過ぎると、相馬やキツネと同じ方角へ向かっていった。
アオイが瞬きする間に、彼らの姿は遠く小さくなっていく。
全く相手にされていないことに苛立ちながら、アオイは忙しく辺りを見回した。自分の脚では、あの三人に追いつくことは出来ない。
それから施設にスノーモービルがある筈だと思いつくと、アオイは雪に足を取られながらホテルへ向かって駆け出した。
ステージは、見る影もなく破壊されていた。しかし、音楽はまだ鳴りやまない。