3-8 愛のメロディー ③
*
同時刻。三階。三〇一号室。
北上がベッドに脚を伸ばして膝の上でノートパソコンを広げて仕事をしていると、ドアの外からノックの音が響いた。
どうせ同室の英語教師が戻ったのだろうと、北上はパソコンを片手に画面から顔を上げぬままドアへ向かう。英語教師は北上が室内に居るからと、キーを置いて打ち合わせに出て行ったのだ。
「横着者め」
聞き覚えのある声に顔を向けると、北上の前には南城の姿があった。南城は腰に手を当てて、首からはタオルを掛けている。
南城はついてくるように言うと、廊下の先を歩いていく。
北上は状況が飲み込めぬまま、慌てて靴を履き換えて南城の後を追いかけた。
南城は三階と四階の階段の踊り場で、北上に手招きしている。
「君は、部屋に、南城。打合せ」
うまく言葉にならない北上に、南城は首を傾げている。南城はミカンの話だと言って、彼女の手にしていたスマートフォンを北上に見せた。
南城のスマートフォンの画面には、動画が表示されている。そこには、ミカンが南城家の使用人とじゃれている様子が映っていた。
「滝が、長いのを撮ってな。チャットじゃ、共有できないんだ。重くて」
ほらと、南城はスマートフォンを北上に寄せる。
北上は南城に体が触れないように気を遣って、首を傾けて画面に目を向けた。画面の中のミカンは、相変わらず見たことのないような余所行きの顔をしている。
「可愛いな。早く帰って撫でたい」
南城は、動画を見て微笑む。
北上の目は段々画面から離れて、自分の頭より少し下にある南城の髪に向けられていた。普段はあちこち巻いたり跳ねたりしている癖毛が、今は少し濡れて頬や首元にはり付いている。
「ん? どうした?」
(いや。違う。やましいことを考えていた訳ではない。ただ、一年の担任陣は打合せの時刻ではなかったか?)「南城」
「ああ、気にしなくていいぞ。夜は、使用人室で寝かすそうだから」
南城は、ミカンの話をしている。相変わらず北上は言葉足らずで、話が噛み合っていない。北上は再び打合せのことを尋ねようと思ったが、嫌な予感がしたので止めた。何故か理由は分からないが、仕事が増えるような気がしたのだ。
南城のするように画面に目をやって、それから北上はまた段々と無意識に彼女の方を見ていた。
髪の先から、ぽたりと雫が落ちる。
「風呂」
「風呂? ああ、大浴場あるよな。眺めがいいらしいぞ」
「南城。髪」
南城は不思議そうに首を傾げて、それから北上は自分の髪が濡れていることを指摘しているのだと気付いた。
「拭いたんだけどな。……ドライヤーを忘れたんだよ。部屋のは、弱いんだ。あれじゃ、なにも乾かない。そよ風だよ」
そう言って南城はスマートフォンを北上に託すと、首からかけていたタオルを頭に被って髪を拭いた。
北上の目は、スマートフォンの向こうの南城を見ている。
「明日も暖かいのかな? 明日は、みんな他のコースにも出るだろ? 怪我しないといいな」
うんと、北上は生返事する。彼の目は、タオルの間から時折除く南城の横顔を見ている。
「北上、スノボはやったことあるか? 私は、どうも好きじゃないな。出来なくもないけど。増田さんは、両方得意だと言っていた」
そうかと、北上は機械的に返事する。
「ここって広いよな。コースの間に、林が幾つもあるだろ? シカとか、狸とか、熊も居るんだってさ」
南城は再びタオルを首に掛けると、北上の方へ目を向けた。
北上の目には、乱れた髪で首を傾げている南城の姿が映っている。
どうしたと尋ねられて、北上は我に返った。少しの間、彼は無意識に考え事をしていたようだった。
北上がスマートフォンを返すと、南城が突然、彼に向けてシャッターを切った。
「悪い。滝がな、朝から『北上先生はお元気ですか?』と煩いんだ。写真でも送っておけば、安心するだろ?」
南城が撮ったばかりの写真を送信すると、彼女のスマートフォンは直ぐに振動した。滝が返信してきたのだ。
「私のも、だそうだ。北上、ちょっと撮ってくれ」
そう言って南城はスマートフォンを北上の方に出したが、すぐに思い直した様子で手をひいた。
「これ、二人で写れば早いんじゃないか?」
そう言って南城は、北上の横に立って体を寄せる。
「自撮りってこれでいいのか? 北上、お前、頭が切れる。少し屈め。……いや、やっぱり切れるな」
隣に立って、南城はううんと唸っている。
「もっと寄らないとダメだな。私が、一段乗るか? いや、二人とも座るか?」
ああでもない、こうでもないと、南城はスマートフォンをかざしながら頭を悩ませている。
北上は南城の手からスマートフォンを受け取ると、腕を伸ばして画面をタップした。南城のスマートフォンの画面には、いつも通り無表情の北上と横を向いている南城の姿が写っている。
これでいいと、南城は早速それを滝に送信した。
南城が喜んでいるのを見て、北上は口の端を僅かに持ち上げて笑う。
スマートフォンから顔を上げて、南城が北上の名前を呼んだ。
北上は微かに目じりを下げて、南城に応える。
そうして南城がなにか言おうとした時、それを遮る様に少年たちの笑い声が廊下に響いた。北上は反射で、眉間に皴を寄せる。笑い声はドアの開閉に合わせて、廊下に響いている。
何処のクラスだと、南城が呆れて溜息を漏らした。
北上には心当たりがあったので、彼は憂鬱になる。
「じゃあな、北上。また後で」
南城は手を振って、階段を上がっていく。その後姿を見送って、北上は渋々三階の廊下に戻った。少し待てば別の教員が対応してくれるのではと淡い期待を持ったが、勿論そんなことはない。
北上は笑い声の聞こえてくる部屋の前に立つと、無心でドアをノックした。
「ば~か! 入れなくなってんじゃ……」
中から飛び出してきた坊主頭の少年の表情が、北上を見るなり凍り付く。
北上の真後ろの部屋からは、枕を両脇に抱えた少年が飛び出してきた。枕を調達しに行っていた彼は、北上の後姿を見るなり部屋の中へと逃げ帰っていく。
「そ……蕎麦職人が来たっ!!」
坊主頭の少年が叫ぶ。
部屋の奥からはドタバタと、かなりの人数が逃げ惑う音がする。
北上は思わず、天を仰いだ。