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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
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3-7 my sweetie pie ⑩



 十八時。


「あー北上は凄いなあ。偉い、えらいなあ」


 南城は棒読みでそういうと、山菜の天ぷらを口に運ぶ。


 窓際の一番隅の席で、北上と南城は向き合って食事を取っていた。


 他の教員たちは増田の指示で離れた席に座り、二人のやり取りに顔をニヤつかせながら聞き耳を立てている。彼らは、二人が交際していると誤解したままだ。


 仕事柄、職場恋愛はそれほど珍しいことではない。しかしそれが犬猿の仲で有名な二人で、それも恋愛という言葉からは程遠いような人物同士ということもあって、彼らは注目を集めていた。


「あと十回、言ってくれ」


 味噌汁を味わいながら、北上は今にも緩みそうな口元を椀で隠した。


 自分から勝負を仕掛けて負けた南城は、不貞腐れた顔で公約通りに北上のことを褒め続けている。


「嫌だ。言ったよ。もう嫌だ」


 プイと横を向いて、南城は漬物をボリボリと噛んでいる。彼女は当然に自分が勝つつもりでいたので、負けた時のことは考えていなかったのだ。


「さっき増田さんが、東北人は生まれた時からスキーを履くと言ってたぞ。出産祝いにスキー板って、青森じゃ常識なんだってな? お前、そんなこと言ってなかったじゃないか」


「南城。あの人の言うことは、真に受けない方がいい」


 一体なにを言っているのかと、北上は増田の方に目をやった。


 増田は北上と目が合うと、バチンッとまるで音が聞こえるような勢いでウインクする。 

 

 北上は、少しだけ体調が悪くなった。


「あーあ。夕飯は鰻だと思っていたのに」


 恨めしそうに、南城は天ぷらを眺めている。


(そもそも学校行事なのだから、教員だけ別メニューはおかしいと思うぞ?)「南城」


「ああ。分かってる。明日は負けない。増田さんが、必殺技を教えてくれると言っていた」


 また伝わっていないなと、北上は自分の言葉足らずを棚に上げて、リベンジに燃える南城に呆れている。


 引率で来ている教師の中でも、体育教師たちのハシャギぶりには驚かされるものがあった。彼らはまるで生徒のノリで、元気一杯にスキーを楽しんでいる。彼らを見ていると、北上には増田ですら働き者に見えてくるから不思議なものだ。


「そうだ。食事の後、少し付き合え」


 南城の言葉には、何故か離れたテーブルの面々が反応している。


「家に土産を買う。あと、横田さんと浦田さんの所」


 北上は頷く。ミカンを預かってもらっているので、南城家には土産を買っていくつもりでいた。


 横田さんと浦田さんというのは、北上家の隣と裏に住んでいる一家のことだ。横田さんからは少し前に果物のお裾分けを、浦田さんからは野菜を頂いた。南城はそのお返しを考えているようだ。


 ちなみにその横田さんと浦田さんは南城のことを北上の未来の嫁だと勘違いしているのだが、本人たちはそれに気付いていない。


「パイは? もっと大きい方がいいかな?」


 飲み込んだ米を詰まらせかけて、北上は慌てて茶を啜る。彼は南城の言葉に思わず動転していた。


「止めてくれ、君まで」


 北上の視線は、南城の平らな胸元の辺りを無意識に漂っている。


「嫌いなのか? だって、こっちじゃ有名らしいぞ?」


 南城の口調で、北上は彼女が土産の話をしているのだと気付いた。確かにこちらに着いてからというもの、色々な店先でアップルパイを目にする。


 北上は、嫌いではないと答えた。それからすぐに、彼は自分自身に菓子のことだと言い聞かせる。


「じゃあ、パイかな。皆に一つずつ。あ、漬物と蕎麦は買うぞ。あと煎餅。お茶もジャムもいいな。横田夫妻は甘いものが好きだと言っていたから、パイがいいか。浦田さんはどうだろう? パイがいいかな? 無難に蕎麦か? いや、やっぱり同じように……」


 南城の言葉を遠くに、北上は茶を啜りながら邪念を払っていた。新幹線、昼食時と、馬鹿な男子生徒の会話を耳にしたせいか、何故か胸を連想させる単語に反応してしまう。中学生でもあるまいしと、北上は自分に嫌気が差している。


 このままではいけないと、北上は別のことを考えることにした。単純な作業を繰り返していれば、おのずと冷静になれるはずだ。


(3.141592653589793238462643383279502884197169399375105820974944592307816406286208998628034825342117067……)


「だから、πじゃない……」


 額に手を当てて、北上は思わず声を漏らす。彼は無意識に、円周率を唱えていた。


 南城は北上が珍しく眉間に皴を寄せているのを見て、そんなにアップルパイが嫌いなのかと驚いている。アップルパイは南城の好物だ。


(こいつ、リンゴアレルギーでもあるのか?)


 そんなことは言っていなかったがと、南城は首を傾げた。


 北上は苦悩し、南城はそれを訝しむ。


 そんな二人を、他の教員たちは遠くから生暖かい目で見守っていた。話の内容は全く見えてこないが、普段は無表情な北上が眉間に皴を寄せている姿は面白い。ましてやその理由が、彼とはなにより縁遠いと思われていた恋愛だ。


 特に増田は、北上が悩む姿を見てニヤニヤするのを止められずにいた。増田と北上とは同じ主任同士、職場で共にする機会も多い。しかし北上はいつも冷淡で、対立することはないものの、増田がどれだけ絡んでも中々相手をしてはくれなかった。


 そんな北上に対する最強のカードを手に入れたことで、増田の中では彼を揶揄いたいという欲求がさらに強まっている。増田は、悪い顔になっていた。


 気持ちを整えて、北上は再び食事に戻る。


 ふと目が合って、北上は南城がなにか言いたそうにしていることに気付いた。どうしたのかと尋ねると、彼女は言いにくそうに口を開く。


「なあ。本当は……嫌いなんだろ?」


「――いや、好きだ」


 一瞬過ぎり掛けた邪な考えを押しやって、北上はぶっきら棒にそう答える。彼はアップルパイを食べたことがなかったが、そんなことは最早どうでもよかった。それから出来るだけ南城の方を見ないようにしながら、北上は味噌汁を飲み干す。


 視線を感じて顔を上げると、北上は増田と目が合った。増田は、顔をくしゃくしゃにして笑っている。その目は、まるで玩具を見つけた時のミカンのようにギラギラと光っていた。



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