表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
progress
157/408

3-7 my sweetie pie ⑧



 向島と別れた後、アオイは足早に自分のホテルに戻ってロビーでエレベーターを待っていた。時刻は、十六時半になろうというところ。


 アオイは先程から能登に電話をかけているが、一向に繋がらない。昼寝中なのかもしれない。能登は普段から、仕事中でも所構わずよく寝ている。人一倍体が大きい分、動くのにも人一倍体力を消費するのかもしれない。


 ロビーの端には、学生らしき集団が居た。彼らは他の利用客に気を遣いつつ、出来るだけ声を落として楽し気に一日を振り返っている。


 その中に弟の姿を探して、アオイは辺りを見回す。しかし残念ながら、ヒカルはどこにも見当たらない。勿論見つけたとしても、声を掛けるつもりはなかった。仕事で来ていることが分かれば、弟に余計な心配をさせてしまう。


 アオイは学生たちを眺めるうちに、自分の学生時代を思い出して眩しそうに目を細めた。あの頃の自分に、今の自分が想像出来ただろうか。


 ようやく到着したエレベーターに乗り込むと、アオイは五階のボタンを押す。他に人が乗らないのを確かめてドアを閉めると、彼女は壁にもたれ掛かった。


(疲れちゃったな……)


 心の中で、アオイは無意識に弱音を吐いている。


 佐渡が掴んだアナザーに関する情報は、嘘だった。その嘘を信じて、彼女は急遽仕事の調整をしたのだ。だがアオイは、それを責める気にはなれない。


 向島も言うように、アオイは此処へ訪れるための理由を欲していた。そしてその理由は、ヒカルやリリカが心配だからという単にそれだけではなかった。


 エレベーターのドアが開いて、アオイはふらりと廊下に出る。ホテルは何処もかしこも暖房が効いていたが、それでも彼女の手は冷えていた。もともと冷え性で手袋は欠かせないのだが、今日は部屋に手袋を忘れたまま出掛けていたのだ。


(もう、お風呂入って寝ちゃいたい……。ビール呑みたいな……)


 自分らしくないことばかりだと、アオイは溜息を漏らす。


 そうして部屋の傍へやってきたところで、アオイは突然、別の部屋の中に引きずり込まれた。


「――最っ低!」


 こんなことをするのは一人しかいないと、アオイは抵抗しながら声を上げる。


「酷いなあ。十数時間ぶりの再会ですよ?」


 ジタバタしているアオイを抱えて、淡路は笑顔で彼女を部屋の奥へ運んでいく。そうして彼はアオイを抱えたまま、ベッドに腰を下ろした。


 壁に沿う様に設置されたシングルベッド。窓際にポツンと置かれた椅子とテーブル。ベッドサイドのテーブルには、飲みかけのペットボトルが置かれている。


 近づいてくる顔に突き付けた拳を止められて、アオイは額と左頬にキスを受けた。


「もう本当……なんなの! 来てるなら、さっさと連絡寄こしなさいよ!」


 身を捩って逃げようとするアオイを、淡路は両手で抱え込む。


「いやあ、僕もビックリしました。アオイさんに、あんな趣味があるなんて」


 言われて直ぐ、アオイは窓辺のテーブルの上に束ねられたロープを見つける。それは彼女が淡路の部屋から持ち出して、彼をベッドに固定するのに使用したものだ。


 アオイはようやく自分のしたことを思い出して、淡路の頬を殴ろうとした手を止める。


「意外だなあ。アオイさんは、ああいうのがお好きだったんですね。でもそれでしたら、僕にも多少は覚えがありますよ」


「淡路。あの」


「あんな薬までご馳走になってしまって。アオイさんたら。奮発したんじゃないですか?」


「だから、あの、ね」


「いやあ。昨日の今日で、向島さんとデートなんて。驚きましたよ~」


 胸の前で手をギュッと結んで、アオイは息を飲んだ。


 淡路はいつもの笑顔を浮かべているが、目の奥は一切笑っていない。向島の名前を口にした時などは、珍しく怒気すら籠っている。


「ご、ごめんなさい……。なにから説明したらいいか……」


 ようやく勇気をふり絞ってそれだけ言うと、またアオイは口を噤む。


 淡路は、いつの間にか作り笑顔を止めていた。


 先ずは続きをしようと言って、淡路はアオイのコートを脱がす。


 アオイはコートに集中しているうちに、スノーブーツも脱がされていた。


「ごめんなさい! 私が悪かったのは、認めるから!」


「そうですねえ。脱出に、一時間近く掛りました」


 ジャケットを脱がしながら、淡路は苦笑する。アオイのロープの結び目は出鱈目で、何処もかしこも滅茶苦茶に堅結びされていたのを思い出したのだ。


「薬も……あれだって、本当は迷って……」


「そうでしたか。……ゴミ袋、大量に買い込んでありましたね」


 アオイは、思わず目を逸らした。


 淡路は、ジトッとした目をアオイに向ける。アオイの部屋の隅には、ゴム手袋や厚手のゴミ袋の他、鋸や鉈、寸胴鍋やポリバケツが用意されていた。


(さては……万が一俺が死んでたら、解体するつもりだったな)


 淡路の心の声が聞こえたのか、アオイは目を逸らしたまま知らんぷりしている。


「僕は仕事柄、薬だの毒だのには耐性を付けてるんですよ。それなのに、あのザマだ」


「じゃあ、アルコールも? 飲めないのは嘘?」


「いえ、本当です。どうしてもの時には、先に薬を……って、僕は今、下手したら死んでいたって話をしてるんですけどね」


 淡路は窘めるようにそう言ったが、アオイに反省している様子はない。そんな薬もあるのかと、アオイは淡路の言葉に妙に感心している。


 アオイがまた良からぬことを考える前に、淡路は話を戻すことにした。


 淡路はアオイに、何故この場所に訪れる必要があったのかと尋ねる。


 アオイは、アナザーの調査だと即答した。


「そうですか。分かりました」


 笑顔で答えて、淡路はアオイのニットをスルリと脱がす。


「ちょっと! 答えたでしょ」


「だって嘘じゃないですか。そもそも、作り話だったんでしょう?」


「聴いてたの? だったら、なんで直ぐ電話……」


「したんですけどねえ。誰かさんが、社用携帯を会社に忘れていったみたいで。それに、僕にもやることがあったんですよ。まあ、それでも、助け船は出したんですけどねえ……」


 淡路はワザとらしく、大きな溜息をついてみせる。そして彼は、アオイの私用携帯には何故か繋がらないのだと大げさに嘆いてみせた。


 アオイは淡路に言われて初めて、自分が彼の番号を着信拒否に設定していたことを思い出した。記憶が確かなら、彼に薬を盛った後に衝動的に設定したはずだ。しかし記憶が朧げだからか、罪悪感は殆どない。


 演技がかった様子で嘆く淡路を見るうちに、アオイは彼の髪型がいつもと違うことに気付いた。前髪を下ろしているせいか、今日の彼は普段よりも幼く見える。 


「髪、いつもと違う」


「シャワー浴びたんです。あちこち走り回ったので」


 どうしてと口にし掛けて、アオイは慌てて口を閉じた。その理由は、自分にある。


 淡路はアオイが言葉を飲み込んだことに、そしてその言葉が一体なんだったのかに気付いて、珍しく彼女に対して苛立っていた。アオイは、反省していない。


 気を取り直して、淡路は再び口を開く。


「ヒカル君とリリカちゃんが心配で、此処へ来ましたよね? あなたは、なにか良くないことが起きると分かっている。違いますか?」


 ヒカルとリリカの名前を出した途端に、アオイの体が強張った。それに気付いて、淡路は更に踏み込んで話を進める。


「あなたは『コアトリクエ』の歌を聞いて、既に相馬の目的に気付いているんだ。それは、あの二人にも影響を与える可能性がある。……それにアオイさんは、この場所に来たことがある。そうですね?」


 淡路の口調は断定している。アオイが返答しないことは、彼には想定内だ。


「アオイさん。あなたは、『エコール』を……」


「違う!」


 声を上げて淡路の手を振り払うと、アオイは彼の腕から逃げ出した。彼女はベッドの隅へ行くと、膝を抱えるようにして顔を伏せる。


 淡路は腕をダラリと下げて、アオイを見た。先程まで抱えていた熱が消えて、彼の体は部屋の空気を痛いほどに感じている。


「……あなた、考えすぎ。調べたんでしょ? 相馬は天文サークルで集まって、なにか馬鹿げたことをしようとしてるだけ。大したことじゃない。ヒカルとリリちゃんは、去年からずっと事故に巻き込まれてる。心配して当たり前でしょ。それだけ」


 アオイの肩は震えている。


「アナザーは、嘘だったんだから。事件なんて起こらない。だから、後は適当に捜査して、それっぽい報告書を上げればいい。そうでしょ」


「アオイさん。あなたは、嘘を吐いてる」


 静かな部屋の中。淡路の声は、雷のように響いた。


 アオイの体の震えは、いつの間にか止まっている。


 淡路はベッドの端へ行くと、アオイの手を引いて体を寄せた。彼女はバランスを崩して、そのまま淡路の方へもたれかかる。


「『コアトリクエ』の歌と『エコール』にはなにか繋がりがある。そして、アナザーにも。あなたは、それを僕に知られたく無かったんだ。だから、置いていった」


 目を合わせると、アオイは動けなくなった。淡路の目は、その奥に鋭い光を隠している。彼は既に、何らかの答えに辿り着いているのだ。


「僕に、あの二人を守るように言いましたよね? だったら、こういうのは困る。仕事にならない」


 アオイは面食らって、えっと小さく声を上げた。


「巻き込むなら、ちゃんと巻き込んでくれないと困るって話ですよ。ああ、あと、勝手に設定増やさないでください。なんですか? 叔母が危篤って。有給だって、三日間も。向島までいるし。……聞いてます?」


「聞いてる、けど。……怒ってるの、そっち?」


 そうですと、淡路は頷く。


 淡路の腕の中で、アオイは力が抜けていくのを覚えた。


「困るんですよ。仕事に影響がでますから」


 それに、どうせ隠しても無駄だと、淡路は心の中で呟く。アオイがなにを何処に隠していても、彼にはそれを必ず見つけ出す自信があった。それはたとえ形のないものであっても、そこが心の中であっても同じことだ。


 そして、もう恐らく隠すことは出来ないのだと、アオイは悟った。これまでの人生で必死になってひた隠しにしてきたことの全てが、いつか淡路によって白日の元に晒されるのだ。それは最早、必然にすら思えた。


「……やっぱり、キッチリ殺しておけばよかった――」


 恐らく本心から呟いたであろうその言葉を耳ざとく拾って、淡路はムッとした。アオイがなにを考えているか、手に取るようだ。


 置いていった罰だと言って、淡路はアオイの額をペチンと指で弾いた。


 すっかり気を抜いていたアオイは、額に手を当てて痛みを堪えている。


「――あの子たちが」


 額を押さえながら、アオイは腕で自分の顔を隠す。


「もし万が一、私が死んだら……誰かがあの家のことをしないと。だってそうしなきゃ、あの子たちが帰る家がなくなっちゃうから……」


 口の端を噛み締めて、アオイは俯いた。


 それが理由なのかと淡路が尋ねると、アオイは俯いたまま頷いて答えた。


 淡路は体を離して、アオイの名を呼ぶ。


 呼ばれるがまま腕を下ろして顔を上げると、アオイは再び額を指で弾かれた。


「……ったあ! もう、なあに……」


「馬鹿だからですよ。あなたが居るところが、彼らの帰るところです。……もう一回いっときます?」


 淡路が指で弾く真似をしたので、アオイは慌てて額を隠した。それを見て、淡路は笑う。


 淡路は笑顔を見せているが、頭の片隅では別のことへ思考を向けていた。彼はアオイが口にした「私が死んだら」という言葉を、決して聞き逃してはいない。やはり彼女は、事件が起きることを予測しているのだ。


 そして淡路は、アオイの体の秘密についても再考し始めている。どんな傷でもたちどころに癒えてしまう彼女にとっての「死」とは、果たして自分のそれと同じ状態を示すのだろうか。


 アオイは乱れた髪を直しながら、額を指で擦っていた。先程感じた痛みは、単に額を弾かれたからというだけではないように思えている。思えばここまで、自分らしくないことばかりしてきてしまった。それがそもそもの間違いだったのだと、アオイは思う。


 淡路は、ベッドの正面に掛けられた時計に目をやった。時計の針は、もうすぐ十七時十分を指そうとしている。


 アオイは能登のことを思い出して、それから部屋の問題についても思い出した。結局、部屋は見つかっていないのだ。


 アオイが部屋のことを口にすると、淡路は問題ないと返す。


「僕が、あちらへ行きますから。できれば、もう一部屋取りたかったんですが」


 淡路は、溜息を漏らす。能登と同じベッドで寝るのだけは嫌なので、強制的にどちらかがソファだ。勿論彼に譲ってやるつもりはないのだが、そもそも能登の体格ではソファで横になるのは無理だろうという気もしている。


 アオイがいつ予約したのかと尋ねると、淡路は答えずに笑顔を見せた。それから彼は、部屋のクローゼットを指す。そこには既に、アオイの荷物が移されていた。


「あと、毛布の追加はお願いしておきました」


「あ、助かる。……で、なんで分かったの?」


 アオイは淡路に追わせないために、靴もコートもカバンも時計も、全て普段とは違うものを身に着けていた。なにか仕掛けられているとすれば、そのあたりだろうと予想していたのだ。


 淡路は、笑顔を見せる。それから思い出したようにアオイを抱き寄せて、彼は彼女の鎖骨の下に口を寄せた。


「ちょっと! 誤魔化さないで」


「誤魔化している訳ではないですよ。あ、あと二、三個付けておきましょうか」


 嫌だと言って、アオイは淡路を突き放そうとする。しかし彼の体は、いくら押してもビクともしない。


 淡路がこういう行動に出る時は、大抵向島のことが切っ掛けだ。アオイはそれに気付いて、彼に向島のことを説明した。そもそもアオイは、向島が此処へ来ていることを知らなかったのだ。


 淡路はアオイの言葉を聞きながら、それでも動きを止めようとはしない。


「……だから、もう! なんでそんなに子どもっぽいの? あんた、年上じゃなかった?」


 アオイは、胸の辺りにある淡路の頭をベチンと叩いた。


 淡路はアオイの言葉にムッとして、ようやく顔を上げる。


「歳は関係ないでしょう。それに、向島さんのことだけですか?」


「なにが?」


「……アオイさんは、僕が紳士なことにもっと感謝するべきですね」


 どこが紳士だと、アオイは毒づく。


 そんなアオイの額に無理矢理キスして、淡路は彼女から体を離した。


(全く、この人は。本当に、どれだけ抑えてると思って……)


 込み上げてくる様々な感情を無理矢理抑えて、淡路はクローゼットから自分の荷物を取り出した。


「とりあえず、能登に声かけてきますよ。食事、何処がいいですか? 下の食堂は、学生の団体で無理そうです」


「えっと……ちょっと、市街まで出た方がいいかも」


 アオイは、向島のことを思い出している。今の状態で鉢合わせることは避けたい。


 淡路は、アオイが向島のことを考えていると察した。


「多分、考えているようなことは起こりませんよ。折角こっちまで出てきたし、名物でも食べに行きましょうか」


 淡路は車を出すと行って、アオイに笑顔を見せた。そして彼は、心の中で向島のことを罵倒する。


 恐らく、向島は今頃、替えの端末を探しに出掛けている事だろう。いつなにをされたか分からない状態で、彼が同じスマートフォンを使い続けるとは思えない。実際には、淡路は向島の電話帳に偽の連絡先を一件追加しただけなのだが、嫌がらせならそれで充分だ。


 淡路は上機嫌で、部屋を後にする。


 淡路が部屋を出ていくのを見送って、アオイはベッドを下りてバスルームへ向かった。


(……そっか。学校名で、ホテルは分かっちゃうか)


 淡路が同じホテルを予約出来た理由に気付いて、アオイは苦笑する。自分の考えはバレバレだ。アオイが能登に予約するよう指示したのも、ヒカルたちと同じホテルだった。


「あいつ……」


 鏡に映る自分の姿に、アオイは驚き声を上げた。脳裏では、淡路が小憎たらしい顔をみせている。


(これって……鬱血? ……すぐ消えるの? 怪我……ではないか)


 鏡の中の自分が、鎖骨や胸元に付けられた痕を指で撫でて首を傾げている。


「やっぱり、子ども」


 アオイの顔は、不思議と笑っていた。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ