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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
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3-7 my sweetie pie ⑦



 同時刻。アオイは、隣のホテルの八階に居た。


 向島の部屋はアオイたちの部屋よりも広く豪華で、小さなキッチンやランドリースペースが用意されていた。部屋の窓からは、スキー場が一望できるようになっている。夜はここから、満天の星空が楽しめるそうだ。


 コートを脱ぐと、向島は壁際のソファにアオイを通した。


 アオイは脱いだコートを胸の前に抱えて、窓際がいいと返す。窓際には小さなテーブルと椅子が、二客向き合う形で用意されている。


 向島は椅子の方をチラリとも見ずに、ソファの方が座り心地が良いと主張した。


「だって、外も観たいし。……だめ?」


 アオイが首を傾げると、向島は少し考えて、それから頷いて応える。彼はお茶を淹れると言って、アオイの抱えていたコートを受け取り、入り口近くのミニキッチンの方へ向かっていった。


(無理でしょ、ソファは……)


 窓の外を眺めるふりをしながら、アオイは必死に自分を落ち着けている。多少強引に連れてこられたとはいえ、ついてきてしまったのは事実だ。今は、ホテルの部屋に二人きり。よくない事態だ。


 アオイはポケットからスマートフォンを取り出して、着信がないか確認する。独り置いてきてしまった能登が、なにか連絡をくれればよいのだけれど。


 スマートフォンの最後の通話記録には、淡路の名前が表示されている。アオイはその表示をしばらく眺めて、それからスマートフォンをポケットに戻した。


「紅茶でよかったか?」


 カップの乗ったトレイを手に、向島が姿を見せた。部屋が暖かいからか、彼は既に薄手のセーター姿になっている。深みのあるグリーンが、向島の白い肌には良く似合っていた。


 ありがとうと言って受け取ると、アオイはカップを両手で包む。部屋は暖かいはずなのに、手は冷えたままだ。


 アオイがカップから立ち上る湯気を眺めていると、向島が椅子を持ち上げて彼女の隣へ移動させた。


 想定していなかった向島の行動に、アオイは言葉を失う。


「この方が、話がしやすいだろう?」


 向島は離れた別のテーブルからノートパソコンを手に戻ってくると、それをアオイの前で広げた。


 仕事の話だと理解して、アオイは胸を撫で下ろす。それから彼女は、そんな自分のことを恥ずかしくも思った。頭を仕事に切り替えなくてはと、アオイは自分に言い聞かせる。


「向島も、アナザーを調査しにきたのね」


「いいや。半分は休暇だ。もう半分は、責任を感じて……といったところだ」


「……話が見えないんだけど」


「この周辺で、アナザーが出たと聞いたか?」


 アオイは、向島と向き合う。


「……じゃあ、嘘ってこと? 向島が?」


「複数の匿名アカウントから情報を流した。あのメガネは、目ざといからな。それに疑り深い。そういうやつの方が、楽なんだ」


 向島のいう「メガネ」とは、佐渡のことだろうとアオイは察する。向島はワザと偽のアナザー情報を流して、それを佐渡に掴ませたのだ。


 他のどんな感情よりも驚きが勝って、アオイはなにも言えずにいる。


 そんなアオイの顔を眺めながら、向島は彼女の様子を注意深く伺っていた。あのUSBを寄こしてきた加賀谷は、失踪している。そしてそのUSBは今、アオイの元にあった。彼女を巻き込んでしまったことを、向島は本気で後悔している。


「今日から、弟は合宿中。その上、『コアトリクエ』がこのスキー場にいる。お前には、ここへ来る理由が必要だった筈だ。違うか?」


「だからって……。だって、だったら、私は……」


 アオイの脳裏に、淡路の姿が浮かぶ。彼を家に留めるために、薬まで使ったというのに。


 アオイの顔が青くなっていくのを見て、向島は彼女の右肩に手を置いた。


「嘘を吐いた償いはする。だがお前には、あの曲のことを知っておいて欲しい。あれに、人を狂わせるような力など無いんだ」


 向島は、アオイの顔を覗き込む。


 アオイの唇は、震えていた。


 見てみろと言って、向島はパソコンの画面で音楽データを再生させた。


「東條。太陽系の惑星の音を聞いたことは?」


 アオイは、首を横に振る。宇宙には、そもそも音は存在しないはずだ。


「正確には、俺たちが言う『音』とは少し違う。プラズマ波を音に変換したものだ」


 向島はモニターを指しながら説明を始めているが、彼の言葉はアオイの耳に届いていない。アオイの目は、モニターの表面をリズミカルに動く波形をただボンヤリと捉えている。


「――だから、それを人の可聴領域に――。……つまり……すると、こうなる。分かるな?」


 向島は再びアオイの方へ目を向けて、そしてすぐに彼女がうわの空であることに気付いた。しかし、説明を繰り返すのは面倒だ。


「……つまりだ、パソコンのフリーソフトで作ったような単調な音楽に造語の歌詞を乗せて、そこに様々な惑星の音を幾重にも被せている。ただ、それだけだ」


 向島はごく簡単な言葉で説明を済ませると、加賀谷から受け取ったあの音楽データを再生させる。それは向島にとって耐えがたい拷問のようでもあったが、アオイへの罪悪感もあり、彼は最後まで一緒に聴くことを選んだのだった。


「気の触れた天文ファンが、これで宇宙と交信できると思い込んでいる。相馬の専門は民俗学だが、奴はその界隈では有名な……所謂、オタクというやつらしい。宇宙人を信じているそうだ」


 流石にループには耐えきれず、向島は曲を停止させた。


 アオイは動きを止めたモニターの波に目を向けたまま、同じように動かない。彼女の胸の中では今、様々な感情が大きな渦を巻いて嵐を起こしていた。


 向島の分析は、正しい。ただ彼は自分の常識を越えた世界を否定するために、その先には辿り着くことが出来ないのだ。アオイは、それに気付いている。


 モニターに視線を落とすアオイの横顔に憂いの色を見て、向島は思わず彼女の肩を抱いていた。


 アオイの耳元では、小さなピアスが鈍い光を放っている。それは彼女が普段好んで付けているような、ダイヤのついたものではなかった。


「相馬にどんな目的があったとしても、奴の音楽に人を狂わす力はない。失踪者は皆、とあるサークルの関係者だ。全て茶番だ」


 向島は皮肉るように、そう言い捨てた。一度はアナザーの関与を確信した彼だったが、今ではそんな考えは捨て去っている。


 向島が調べを進めるうち、コアトリクエこと相馬は、有名な映画の考察を目的とするサークルの一員であることが分かっている。それはもう何年も前の、探査機が小惑星からサンプルを持ち帰った話を題材にしたものだ。


 失踪した人間のうち、少なくとも向島が調べた範囲では、彼らは皆そのサークルに何らかの関りを持っていた。ただ、加賀谷を除いて――。


 向島は、友人の加賀谷にだけは、サークルとも相馬とも接点を見出すことが出来なかった。加賀谷がそういったサークルから勧誘を受けていたという話も、天文に興味があるという話も聞いたことがない。


 それだけは向島の中で疑問として残ったが、彼はアオイを安心させるべく、それについては口にしないことに決めた。


 相馬の目的は定かではないが、恐らくサークルのメンバーで集まって、彼らは宇宙へ交信を試みるつもりだろう。それは向島にとって、非科学的で、非現実的で、非生産的で――つまりは、愚かである。


「――ここは、星が綺麗なんでしょう?」


 アオイは向島にそう尋ねたが、答えは欲していなかった。彼女の視線は、まだモニター上にある。


「満天の星空だそうだ。……一緒に、眺めないか」


 そういって向島がアオイへ顔を寄せた時、二人の間でスマートフォンの振動する音が響いた。


 アオイはポケットから取り出して確認するが、通知は来ていない。


 アオイに促されて向島が確認すると、どうやら彼のスマートフォンに着信があったようだった。訝し気な表情で相手を確認して、そこに知人の名前を見付けると、向島はアオイに表情を悟られぬように体を離す。


 向島のスマートフォンの画面には、失踪したはずの「加賀谷」の名前が表示されている。


「仕事でしょ? 席、外すから。掛けなおしたら?」


「ああ。すまない。また連絡させてくれ」


 向島に笑顔で返すと、アオイは席を立つ。彼女は思わぬ形で助けられ、名前も知らない向島の仕事相手に感謝していた。もし本当に夜に会うことになったとしても、その時は能登を連れて行けばよいのだ。


(能登には、ちょっと申し訳ないけど……)


 せめて夕飯は美味しいものを食べさせてあげようと、アオイは心の中で呟いた。


 アオイは向島に見送られて、コートを手に彼の部屋を後にする。


 向島はドアの向こうへ消えていく笑顔のアオイを見送って、溜息を漏らした。突然仕事だと言っても、アオイは嫌な顔一つ見せない。それは日々多忙にしている向島にとって、好ましくもあり、寂しくもあった。


 我儘を聞いてみたいものだと、向島は呟く。


 それからスマートフォンを耳に当てて、向島は加賀谷へ電話を掛けなおした。しかし加賀谷には繋がらず、コール音すら鳴らずに、向島の耳には無機質な機械音声が聞こえ始める。


 スマートフォンを耳から離して、向島は画面に目をやった。なにかが、おかしい。


 向島は、スマートフォンの画面を注意深く眺めた。そこには、加賀谷エイジの名前が表示されている。


 向島はソファへ移動して腰を落ち着けると、言いようのない違和感の正体を確認すべく再びスマートフォンに目を向けた。数十秒ほど眺めて、それから彼は眉を潜める。


「……『カ』『ロ』賀谷エイジ……?」


 確認すると、連絡帳には加賀谷エイジが二人登録されている。一人は彼のよく知る「加」賀谷エイジ。そしてもう一人は半角のカタカナで、「カ」「ロ」賀谷エイジとして登録されていた。


 こんなことをする人間も、あのタイミングで電話をかけてくる必要があったのも、向島が知る限りでは一人しか存在しない。


「やはり、躾が必要だな……」


 怒りを抑えるべく、向島は目元を掌で覆う。彼の脳裏には、憎たらしく笑う淡路の姿が浮かんでいた。


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