3-7 my sweetie pie ⑤
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「――だから、仕方がないでしょう? ほら、立って立って!」
すっかり落ち込んでいる能登を励まして、アオイは彼の腕を掴んだ。
能登の尻は道路脇の側溝の中にハマっていて、彼は体をグイグイと捩じらせて脱出を試みている。側溝の幅はやや広めで、温泉の湯が排出されているため中は温かい。本来は、雪を捨てる場所なのかもしれない。
アオイと能登は聞き込みとホテルの部屋の確保を目標に動いていたが、どちらも成果を上げられず、仕方なく元のホテルへ戻ってきたところだ。
時刻は十五時を回っていて、能登は空腹と眠気とを覚えている。その上、雪道を歩き慣れていない彼は雪で足を取られ、側溝へと落ちてしまったのだ。
「大丈夫? ……え? 今日は全然ダメな日だって? そんなの、気にしても仕方ないでしょ。誰にだってあるから」
能登の脱出を手伝って、アオイは後ろへ尻もちをつく。直ぐに立ち上がって、アオイは汚れたコートの後ろを手で叩いた。
能登はなんとか側溝から脱出し、アオイと共に慎重に歩き始める。ホテルはもう、目の前だ。
ホテルに到着して直ぐ、アオイは能登に鍵を渡して、部屋に戻って着替えるように言った。いつまでも濡れたままでいると、風邪をひいてしまう。
しかし能登はモジモジしていて、中々部屋へ向かおうとしない。
「どうしたの? ……え? ホテルが見つからないから、自分は野宿するって? そんなのダメに決まってるでしょ。もう。なんとかするから、気にせず着替えてきなさい」
アオイが口を尖らせたので、能登はペコリと頭を下げて階段を駆けあがっていく。ロビーに人が増え始めてきたからか、能登なりに気を遣ってエレベーターを避けたのだろう。
能登を見送って、アオイはロビーのソファへ移動した。
なんとかするとは言ったものの、プランは思いつかない。最悪の場合は市街地まで戻って、ネットカフェで一晩過ごすしかないだろう。同じホテルというだけでも問題視されかねないというのに、同じ部屋で過ごす訳にはいかない。
(焦りすぎて、慣れないことしちゃったからかな……)
脳裏には、小言を垂れる課長の天下井と部下の佐渡の姿が浮かんでいる。アオイは彼らの姿を追いやるように、溜息を漏らした。
「――浮かない顔だ」
耳元で囁かれて、アオイは慌てて振り向いた。そこには、向島の姿がある。
驚き過ぎてアオイが言葉を返せずにいると、向島は微笑んだ。それから彼は手を取って彼女を立たせると、もっと静かな所で話をしようと言った。
「待って! あの、今は能登を待ってるの。……それに、どうして?」
「時間を作ると言っただろう? ここでは話も出来ない。行こう」
「言ってたけど……。でも、だからって」
「説明が必要なら部屋で、だ。ここは寒い。……なんだ、珍しいな」
向島は不満そうな顔で、アオイのパンツスーツを見ている。
アオイはそれを不思議に思い、首を傾げた。向島は、他人の服装に口出しするような性格ではないのだが。
「だって寒いもの。それより、ここじゃダメ? 能登が着替えに行ってるの。急に居なくなったりしたら、あの子驚くから」
アオイが説明しても、向島の目元には不満が見える。なにか言いたげだ。そんな彼の様子を見て、アオイもムッとした。
「なあに? そんなに脚が見たかったわけ? なんだっていいでしょ。フェチなの?」
口にしてすぐ、アオイは自分を馬鹿だと責めた。つい淡路にするように返してしまったが、相手は向島なのだ。
恐る恐る目をやると、向島はアオイから顔を背けて視線を落としている。怒らせてしまったと、アオイは焦りを覚えた。
「向島! ごめん。私、失礼な……」
言いながらアオイは、向島が顔を赤くしていることに気付いた。
向島はアオイの視線に気付くと、手をぎゅうっと握りこんで、それから小さな声で言う。
「……バレリーナのように、美しいから……」
向島は、口の端を噛み締めた。
普段とはあまりに違う向島の様子に驚いて、アオイは慌てて口元を手で塞ぐ。思わず口にしそうになった「可愛い」という言葉は、プライドの高い向島を怒らせるかもしれない。
向島はそんなアオイの手を引っ手繰る様にして掴むと、ツカツカと速足でホテルの外へ向かって歩き始めた。
アオイは抵抗しようとしたが、向島の耳が赤いことに気付くとなにも言えなくなり、大人しく後をついていく。向島のこんな姿を目にするのは、初めてだ。
それから十分程して、階段からは能登が現れた。彼はロビーをキョロキョロ見回すと、首を傾げる。それからなにか思いついたようにして、彼はまた五階の部屋まで階段を駆け上がって行った。