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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
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3-6 大胆に、情熱的に ④



 風呂から上がると、淡路は脱衣所で睨むような視線に気付く。洗面台の鏡に映るその男は、自分と同じ顔をしていた。


 責めるような自分の視線から目を背けて、淡路は素早く支度を整えてリビングへと向かう。顔には既に、いつもの笑顔が貼り付いている。


 リビングには、誰も居なかった。時刻は二十二時を過ぎたばかりだが、リリカはもう帰宅していて、ヒカルもベッドに潜っている。明日から二人は、スキー合宿へ向かうのだ。


 リビングからテラスへ出るガラス戸が僅かに開いていて、そこから入り込む風でレースのカーテンが揺れている。


 アオイが外に出ているのだと思い、淡路はソファに置かれていたブランケットを手にテラスへと向かった。


 空には、針のように細く刺さりそうな月が浮かんでいる。


 アオイはテラスに面した彼女の部屋の前に立って、ビールの缶を傾けていた。淡路よりも前に風呂を済ませた彼女は、ワンピース型のルームウェアにモコモコした素材のカーディガンを羽織っている。足元は裸足だ。


 アオイは淡路の姿を認めると、小さく笑って視線を落とした。それから振り返って自室のガラス戸を開けると、部屋の床に腰を下ろしてテラスへ脚を投げ出す。


 アオイは彼女の隣の床を、トントンと叩いた。隣に、呼んでいる。


 珍しい行動だと思いながら、淡路はアオイの隣へ行く。ブランケットを膝に掛けてやりながら、彼は横目でアオイの様子を窺った。どこか、様子がおかしい。


「あれ。それ、三本目でしょう? 怒られちゃいますよ?」


 淡路は敢えて少し意地悪な口調でそう言ってみせたが、アオイからの反応は薄い。彼女は目を伏せて、なにか考え事をしている。


「明日は、二人が出発する時間に声をかけますね。見送りするでしょう?」


 淡路がヒカルとリリカの話題を口にしても、アオイは頷いただけ。淡路がさり気なく肩を寄せても、彼女はそれを避けようともせず嫌がるような素振もない。


 やがてアオイは顔を上げたが、その目は空を見ている。


 それからしばらく、会話は無かった。それでも二人は何処へも行かず、隣で月を眺めていた。


「――柄にもなく、緊張しちゃって」


 淡路がアオイの方へ目をやると、彼女はビールを口に含んでいた。そしてそれをゴクリと飲み込むと、アオイは缶を床に置いて淡路に体を預ける。


 ぎゅっと、アオイの手が淡路のシャツを掴んだ。彼を見上げて、アオイは静かに目を閉じる。その耳元には、淡路がクリスマスに贈ったピアスが輝いている。


(……変だな)


 求められるまま唇を重ねて、淡路は彼女の背中を支えながら周囲に気を張り巡らせた。辺りに人の気配はない。アオイの両手は空いていて、身に着けている衣服の袖口にもなにかを隠している様子はない。


 顔を離すと、アオイは少し俯いて、それから今度は淡路の首に両腕を回した。しかしやはり、なにか仕掛けてくる様子はない。


 アオイに応えてキスしながら、淡路は右手で彼女の髪に触れた。伝わるのは冷たい質感と指の間をスルリと抜けていく感覚だけで、そこに針や糸のようなものは隠されておらず、薬の臭いもしない。


 それでも淡路は自分が覚えた違和感を捨てきれず、アオイの周囲を注意深く探る。明日は二人が、朝早くから合宿へいく。既に自室へ下がっているとはいえ、弟が家に居るこの状態でアオイがこんなことを考えるだろうか。


 小さな吐息を溢すと、アオイは淡路の手を引いて部屋の中へと招いた。彼女は先に、部屋の奥へと進んでいく。


 淡路は警戒している素振りを見せぬように気を配りながら、後ろ手でガラス戸とカーテンを閉めた。暗くなった部屋の中で、淡路はアオイのシルエットを捉えている。


 衣擦れの音がしたかと思うと、すぐにアオイが傍へ戻ってきた。


 部屋には、二人きり。リビング側のドアの外にも、テラス側のガラス戸の向こうにも、人の気配はない。


 アオイの手が淡路の両腕に触れて、それから彼をベッドに誘導した。


(なんだ……? 一体、なにがおかしい……?)


 拭いきれぬ違和感に苛まれながら、淡路は再びキスを交わした。


 アオイが耳元で、なにか呟く。その声は小さく、聞き返そうとしても何故か叶わない。




 そうして次に淡路が目を開いた時、部屋の中はすっかり明るくなっていた。


 目の前には、アオイの部屋の天井がある。カーテンの隙間から入り込む陽の加減から推測するに、既に相当の時間が経過しているのだろう。家に人の気配はなく、ヒカルたちは出発した後のようだ。


「――ああ。最初から、唇に塗っていたのか」


 それなら辻褄が合うと、淡路は一人ごちた。過去にアオイが刺し傷を負った時も、怪我はたちどころに完治していた。恐らく彼女は、毒や薬の類にも耐性があるのだろう。


 そういったアオイの体質を考えれば、相手に一服盛るのならその方法が一番楽な筈だ。ビールを飲んでいたのは、そちらに注意を引き付け、且つ臭いを誤魔化そうとしたのかもしれない。


 アオイに誤算があったとすれば、淡路もまた薬に耐性を持っていたということだ。彼女が時折見せていた俯く仕草は、恥じらいではなく困惑だったのかもしれない。


「やっぱりいいな、アオイさん」


 淡路はすっかり素の表情になって、甚く感心し、天上を眺めながら僅かに頬を染めている。彼の体は今、ベッドの上にロープやガムテープ、ゴムバンドなどでグルグル巻きに固定されていた。ガリバー旅行記の挿絵を思い出すようだ。


 手首、足首、襟元と、淡路が隠し持っていたツールは全て取り上げられていた。ロープは淡路の部屋にあったもので、キャンプに使用するためのものだ。関節という関節は丁寧に固定されていて、淡路の体は首だけが動く状態にある。


 辛うじて見えた時計の針は、八時十六分。


 部屋には、勿論アオイの姿はない。


 参ったなと、淡路は真顔で呟いた。

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