3-6 大胆に、情熱的に ②
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二〇×二年 二月 三日 木曜日
十六時半。
職員室のホワイトボードの前で、北上は憮然としていた。明日からの三日間、北上は長野県で行われるスキー合宿に参加と書かれている。
北上は、一度は正式に断りを入れることに成功していた。しかし増田は彼よりも一枚上手で、「ここ最近の激務への慰労を兼ねて」という理由で北上をメンバーに押し込み、更に学園の上層部からも賛同と了承を得ていたのだ。
増田の策略により、北上はいつの間にかスキーが趣味のように扱われている。口下手な為にその誤解は解けず、北上は彼の意思に反して合宿に参加することになってしまった。
更に偶然なことに、理事長の趣味がスキーだったということもあって、北上は随分と気に入られてしまったようだった。理事長は事あるごとにスキーの話題を持ちかけてくるのだが、北上はそれを億劫に感じている。
右手で左肩の後ろを掻きながら、北上は頭の中で状況を整理していた。
現在は、昨日実施された、白鷹中学校入試の採点作業が行われている。数学科は既に採点を終えていて、後は国語、社会、理科の三教科を待つのみの状況だ。
合格発表は二月五日の土曜日なので、今日中には採点作業を終わらせて、リストをまとめなくてはならない。次の作業を担当する部署からは、既に圧力を感じている。
スキー合宿の件を確認しようと、北上は職員室の中を見回した。だが、体育科主任の増田の姿は見当たらない。恐らく、バレー部の方に顔を出しているのだろう。大会前でもなければ、本来は採点日に部活動を入れることはないはずなのだが。
右手で右肩の後ろを掻きながら、北上は自席へ戻った。
北上が席に腰を下ろすなり、隣のデスクにうず高く積まれたプリントの山がなにかを喋りかけてくる。積み上がりすぎて、そこにいる人物の顔が見えないのだ。
「……片岡先生? 失礼」
「理科も終わったそうですよ。国語科は、あっちで殴り合ってます」
プリントの山の向こう側にいる人物――社会科の片岡は、先程よりも大きな声で北上に答えた。
片岡は日本史を担当している五十代の男性で、彼は毎授業必ず自作のプリントを補助教材として配布している。そのため彼のデスクはいつもプリントで要塞が築かれていて、北上は今にも崩れそうなその隣で仕事をする羽目になっていた。
「国語科はまたですか? 終わるのかしらね?」
北上の向かいの席から、のんびりした女性の声が聞こえている。こちらも積まれた本で姿が見えないが、向こうに居るのは英語科の米田という女性教諭だ。
海外で四半世紀程暮らしてきたという米田の英語の授業は、思い出話に花を咲かせがちで、とても脱線が多いことで知られている。彼女のデスクには生徒たちに薦めるための洋書が積まれているが、そこには埃が積もっていた。
「あそこは、いつぞやの薩長くらい仲が悪いですからね」
クククッと、片岡がプリントの山の向こうで笑っている。
社会科も採点は終わっていないのに、片岡は我関せずといった様子だ。彼は現在、入試の採点とは別の仕事をしているので、事実として他人事と考えている。急ぎの保護者対応が入ったというのだが、その割には気楽そうだ。
痒みを覚えて左肩へ手を回し、北上は溜息を漏らした。数学科の採点作業は終えているとはいえ、先に帰る訳にもいかない。ましてや自分は主任の職についていて、本部の最終的な合否判断が下りるまでは帰宅出来ないのだ。
ふと、パソコンにメールが届いていることに気付いて、北上は内容を確認する。相手は、増田だ。嫌な予感がして、北上は思わず添付資料の確認を躊躇った。
資料には、合宿先での割り振りの変更が記載されている。ホテル待機だったはずの北上には、本人の承諾を得ずに他の業務が割り振られていた。
北上は時計を眺め、今のうちにバレー部へ顔を出して、先に増田に話をしようと思いついた。今後のことを考えると、流石に少し強い口調で抗議しておかなければならない。
北上が立ち上がると、入り口に近い島にいた小柄な女性講師が同時に立ち上がった。同じ数学科で、非常勤で勤務している小金だ。
小金はなにか言いたげな目で、北上をジイッと見つめている。
「――こちらは、もう大丈夫です。上がってください」
先に北上が声を掛けると、小金は頭を深々下げて、荷物を手にそそくさと職員室を出ていく。そして小金に便乗するように、その後をさらに二名の若い女性が続いた。彼女たちは全員、子どもを保育園に預けているママさん職員だ。
「教師歴うん十年……定時帰りなんて、したことないなあ」
「そうねえ。この国では、女性だけが犠牲になってますものね。あちらでは、パートナー同士で支え合うのが当然でしたのに」
悪気なく口にした片岡の呟きを拾って、米田が噛みついている。
北上は巻き込まれる前に、自席から離れることにした。
職員室の扉へ向かう途中、北上は隅に集まって話し合う集団を見た。国語科だ。彼らは皆穏やかな表情をしているが、その実は壮絶な言葉の殴り合いを繰り広げている。
記述解答のある教科の採点作業が難航することは通常予見出来ることなのだが、その中でも国語科の採点作業は毎年難航を極めていた。大石、小峠という二人のベテランが、毎年、互いのプライドをかけて衝突するのだ。
採点日の夕方現在、京都出身の大石と香川出身の小峠は、一見すると柔らかいような、婉曲で審美性の高い表現を駆使して、互いの採点基準はあり得ないと批判し合っている。
二人の周囲には五、六人の国語科教員の姿があったが、彼らは争いに割入ることなく、皆が一様に良い笑顔を浮かべていた。もはや完全に諦めて、現実逃避しているのだ。
あれではまだ終わらないなと、北上は気を滅入らせた。こうしている今も、ミカンがまた悪戯しているかもしれない。
子猫のミカンは、やんちゃ盛りだった。障子という障子には穴を空けてしまうし、戸の角は爪とぎの為にあると考えている節がある。カーテンは登るものだし、北上のネクタイは玩具に見えているようだ。
ミカンはまるで女王のように振舞って、北上の布団のど真ん中で寝たり、彼の晩酌を邪魔したり、エンドレスで遊びを要求したりと好き勝手している。北上のことは召使とでも思っているのか、名前を呼ばれても気分次第では振り向きもしない。
やんちゃで、気まぐれ。そのくせ甘える時はベッタリで、安心しきった顔で喉を鳴らし、膝の上から絶対に降りようとしない。残業で帰りが遅くなった時などは、まるで寂しかったと言わんばかりに悪戯をして北上を困らせるのだ。
北上は溜息交じりに、左の肩に手を回した。彼の左右の肩の裏には、真新しい引っ掻き傷がある。
昨日、ミカンが洗面台の上から風呂上がりの北上に向かって落ちてきて、彼の肩の裏を引っ掻いていったのだ。恐らく驚いて爪が出ただけで、彼女に悪気はないのだろうが。
「ああ、増田先生。丁度よかった」
北上は、頭を屈めて戸を潜り職員室に入ってくる増田に気付いた。
増田は目を合わすなり、北上の方へ両手を合わせて拝むようなポーズを見せる。
「ごっめん! 本当にごめん! でも本当に、人数足りないのよお。今回はお願いね!」
「いえ、困ります」
「困るっても……じゃあ、どうしようか。だって明日からだし、もうこの時間だしさあ」
増田は、困った表情をしている。
本当に困っているのは自分だと、北上は増田を恨めしく思った。無理矢理やっておいて、被害者側に立つのが上手い人間というものは居るものだ。
北上は無意識に、右手で左肩の裏を掻く。
増田がより困った顔をしてみせたので、北上は早々に背を向けて自席の方へ向かった。このままでは、押し切られてしまう。
「センセ。ねえねえ。北上センセ!」
「困ります。お断りします」
「えええ? ねえ、北上センセ! お願いします! この通り!」
増田の声が大きいので、二人は歩くうちに視線を集めていた。
北上はそれでも了承せず、自分の席に腰を下ろしてノートパソコンを開く。やろうと思えば、仕事は幾らでもあるのだ。増田が諦めるまで、北上は仕事に集中することにした。
「北上センセ! ねえって。本当、お願いしますって! 今回だけ!」
「無理です」
北上はまた痒みを覚えて、肩の後ろに手を伸ばした。
「一生のお願い! ……ってか、さっきから背中どしたの? 蕁麻疹とか?」
(猫に)「爪を立てられただけです」
北上は素っ気無く答えて、仕事を続けている。
「……え? え、なに? 爪? そんなところ、引っ掻かれるって……」
増田は自分が下手に出ていたことを忘れて、普段の悪い癖が出ている。彼女は北上を揶揄いたくて仕方がなく、どんな時でも崩れない彼の鉄仮面をどうにかしたい一心で悪い顔になっていた。
「あっら~? なあに~? やあだ、もう。ニャンニャンしちゃった感じ~?」
増田は腕を組んで、北上の顔を覗き込むように腰を屈めた。
北上は、そんな増田の様子に呆れている。
(子猫なんだから)「それくらい、当たり前でしょう」
全く増田は馬鹿げている。そう思って、北上は引き続きパソコンに向かっていた。
しばらくして、北上は周囲がやけに静かなことに気付く。増田でさえ、なにも言ってこない。
妙だなと感じて北上が顔を上げると、彼は向かいの席の米田と目があった。米田は積まれた本の上に肘を置いて、メガネを指でグイと持ち上げ、北上の方を見ている。
北上の真横には、増田の顔があった。彼女は目を見開いて、北上のことを見ている。
「なんですか?」
体を後ろへ引こうとして、北上は誰かに椅子の背もたれを抑えられた。首だけを向けると、彼の真後ろには、隣の島にいるはずの物理の佐々木と英語科の駒場の姿がある。左隣のプリントの山からは片岡が顔を出して、北上を凝視していた。
「一体、なんですか」
北上は気味が悪くなって、無理矢理席から立ち上がる。そうして彼は、自分が職員室中の視線を集めていることに気付いた。
首を伸ばして視線を送って来る者、横目で視線だけ向けてくる者、立ち上がって北上を見ている者――様子は様々だ。彼らに共通しているのは、皆が北上の次の言葉を待っているということである。
「えっと、整理するよ? いい? ここ重要だよ? もっかい聞くよ?」
北上の隣で、増田が人差し指で額をトントンと叩きながら目を閉じている。
一体なんだと、北上は彼女の様子を不審に思った。
「センセも、意味は分かってるよねえ? ……そういう子、できた?」
「はあ。そうですが」
一体なにが楽しいのかと、北上は既に呆れを通り越していた。「ニャンニャン」が、猫を表す幼児言葉であることは明白だ。
しかし増田はその言葉を、北上の考えているような意味では使用していなかった。
今、職員室の中で、増田が猫の話をしていると思っているのは北上だけだ。その言葉を初めて耳にした者でさえ、話の流れからある行為を連想していた。だがセクハラと言われるのを恐れてか、誰もそれを口にしてまで確認しない。
北上は無視してそのまま仕事に戻ろうとするが、周囲の視線は尚も自分に集まっている。
「北上先生」
入り口の方から名前を呼ばれて、北上は視線を向けた。そこには南城が立っていて、少し控えめに北上のことを手招きしている。
渡りに船だと言わんばかりに、北上は増田を押しのけて南城の元へと向かう。その間も、皆は彼に視線を送り続けていた。
北上は南城に呼ばれるまま、入り口の傍に置かれたパーテーションの裏へ歩いて行く。
「……お前、なにか悪さしたのか?」
「いや? 何故だ?」
「そうか? まあ、いい。お前、今日は遅いだろ? だから先に、明日の話をしておこうと思って。明日の朝は、家にミカンを連れてきてくれ。滝が、うちで預かるってさ」
南城の言葉で、北上はミカンの預け先が必要なことに気付いた。元野良猫なので、エサの用意さえあれば問題ないと考えていたのだ。
「そうか。それは、ありがたい。だが、迷惑にならないか?」
北上はまた無意識に、肩の後ろを掻いていた。
それを見た南城は、ミカンがなにかしたのだと察する。
「気にするな。それ、引っ掻き傷か? 帰ったら、軟膏を塗らないとな。先に戻って、ゴハンをあげておくよ」
北上は、南城の言葉を嬉しく思った。そうであれば尚のこと、仕事を早く切り上げなくてはならない。
「私は適当に帰るから。明日はミカンを頼むぞ? そのまま、東京駅まで一緒に行こう」
じゃあなと言って、南城は去っていく。
その後姿を見送って、北上は無意識に口の端を持ち上げていた。
それから北上は、国語科が揉めていることを思い出す。このままでは、まだ当分帰宅することは出来ない。
さてどうしたものかと考えながら、北上はパーテーションの裏から顔を出した。するとそこには、増田が立っていた。
「北上センセ」
にこやかに、楽し気に名前を呼んで、増田は北上の肩に手を置く。
「やるじゃん!」
「は?」
北上が理解できないでいると、増田は彼の肩を力強く叩いた。
「一緒においでよ、東京駅」
「……は?」
北上には、ニヤニヤ笑う増田の真意が掴めない。
増田の向こうには、他の教員たちが集まっていた。優しく温かい表情の者もあれば、感心するような表情の者、増田と同じようにニヤケ顔の者もある。部屋の隅で言葉の殴り合いをしていた国語科の二人でさえ、今はまろやかな顔で北上に視線を向けている。
一体なんだと、北上は心の中で呟く。皆の様子が、おかしい。北上はそれを、過労からくるストレスが原因だと考えた。この時期の教員に、暇な人間など居ないのだ。
「いやあ~。春だねえ~」
笑っている増田を横目に、北上はまた呆れた。今は、真冬だ。
北上は南城との交際を誤解されているということに、全く気付いていないのだった。