3-6 大胆に、情熱的に ①
六、大胆に、情熱的に
二〇×二年 一月 三十一日 月曜日
人の気配を感じてアオイがモニターから顔を上げると、テーブルの向こうには部下の佐渡が立っていた。
佐渡は両手に持っていた紙製のドリンクカップを掲げて見せてから、同席してよいかとアオイの許可を求める。アオイは直ぐに、重要度の高い仕事の話だと察した。
「どうして分かったの?」
アオイは急ぎの仕事を抱えていたが、自分のデスクでは差し込みの案件が次々に入るので仕事にならず、署内の空いているブースに避難していた。部下たちには用があれば電話するようにと伝えただけで、場所までは伝えていなかったのだが。
テーブルの資料を自分の方へ寄せて、アオイは佐渡にスペースを空けた。
佐渡は軽く頭を下げてから正面に腰を下ろし、アオイの方へ手にしていたカップを寄こす。中身は、近所のスタンドで販売しているカフェラテだ。
「そろそろ、東條さんとも長いんで」
佐渡はカップを口に運びながら、短くそう答えた。
アオイの手元には、少し前に空になったブラックコーヒーの缶がある。そろそろ、温かいものが欲しいと思っていたところだ。
時刻は十四時半を過ぎたところで、まだ昼食にありつけていないアオイはさすがに空腹を覚えている。
「すみませんがね、愚痴でも聞いて貰いたい気分なんすよ」
(アナザーの件で、お話があります)
モニターのチャット画面には、同時に佐渡からの通知が入った。
両隣のブースは空席だったが、佐渡は声を落としている。ブースは壁に沿ってコの字型にパーテーションで区切られただけの簡素なもので、どうやっても声は漏れてしまう作りになっていた。
「あのねえ。……急ぎだがら、作業しながらね」
(了解。続けて)
「どうも。……国後の奴ですよ。あいつ、ここんとこ、仕事中にコソコソやってて。で、問い詰めたらコレっす」
(アナザー出現と思われる情報が数件。長野県です)
佐渡は手にしていたスマートフォンの画面を、アオイに見せる振りをした。そこには二人のチャット画面が表示されているだけだ。
「ネットじゃ有名な作曲家らしいんですがね。ご存じですか?」
(情報洗ってますが、恐らく間違いないかと。何件か通報もあったようです)
「全然。興味もないかな。……それが?」
(長野県警からは?)
「一曲だけ、特殊な方法でしか買えない曲があるとか。で、一課の馬鹿に煽られたとかで、あのバカはパスワード突破するってんで仕事中にカタカタやってた訳です。酷い話っすよ。この忙しい時に」
(事実確認なしの一点張りです。地方じゃ、アナザーの存在自体、懐疑的なんでね)
「そうね……悪い子じゃないんだけど。確かに、ちょっとそういうところあるかな。乗せられやすいっていうか」
(この話、他には?)
「普段は斜に構えてて、冷めた感じですがね。中身は真逆っすよ。真面目で正義感が強い……いや強すぎて、カッとなると他が見えない。まあ、歳食っていきゃあ、多少は落ち着くと思いますがね」
(自分だけです)
アオイは佐渡の言葉に、深く頷いてみせた。
二人はカップに口を付けて一息付きながら、周囲の様子に気を配っている。
「彼のこともそうだけど。……教育係を任せっきりにしていて、本当に申し訳なく思ってる。でも、佐渡なら大丈夫って思ってるのも本当なの。……そういう意味じゃ、私も甘えちゃってるのかな」
(この話、留めて。出現ポイントの洗い出しが出来るか、ちょっとやってみてくれる?)
「こりゃあ、お褒めに預かりまして。どうも」
(承知しました。今日中には、一度進捗報告入れます)
佐渡は芝居掛かった口調でそういって、仰々しく頭を下げる。
「そういえば、そのパスワードって結局どうなったの?」
「見事立派に、突破しやがりましたよ。あのバカ、そういうところだけは強いんで」
国後らしいと、アオイは笑う。
佐渡はコーヒーを飲みながら、笑えないと溢した。国後は、仕事もゲーム感覚でやっているような節がある。今回の件も、どれだけ短い所用時間で突破できるか、一人でタイムアタックしていたようなのだ。
佐渡によれば、国後はパスワード突破後は対象への興味を完全に失って、自分から仕事に戻ってきた。彼に言わせれば、お金を払ってまで知らない曲を買いたくないそうだ。
「馬鹿とハサミは使いようって言いますがね。ぶっちゃけ俺は、馬鹿の方は要らねえっす」
「そう? 佐渡は、馬鹿のほうが可愛いんでしょ?」
なんだかんだと面倒見のいい佐渡に、アオイは信頼を寄せている。それは特務課のメンバーも同じことで、彼らは年長者の佐渡を心から慕っていた。
佐渡は口の端で笑って、コーヒーを飲み干す。
そろそろ戻ると言って、佐渡は席を立った。カバンを持たない主義の彼は、いつもコートのポケットに物を詰め込んでいて、それはズシリと重そうに見えている。
「――何かあったら、後はお願いね」
アオイは佐渡ではなく、モニターの方へ向けてそう言った。彼女は自分でも、何故その言葉を口にしたか説明が出来なかった。しかし、佐渡になら託せると考えているのは、彼女にとって紛れもない事実だ。
佐渡はアオイの方を向いて、戸惑いを隠すようにいつものシニカルな笑みを見せる。
「まだ当分、そこに居てくださいよ。じゃなきゃ俺ら、出来すぎる上司の愚痴を肴に酒が呑めなくなるんで」
そういうと佐渡は、アオイの顔を見ずに去っていく。
佐渡が去った後も、アオイはしばらくブラックアウトしたモニターを眺めていた。そこに映る自分の顔は、どこか情けなく惨めだ。
(お腹空いた……。なんか、もう、疲れちゃったな……)
心の中で、アオイはポツリと呟く。
食は力ですからねと、脳裏で誰かの言葉が蘇る。それが淡路だったと思い出すと、アオイは何故か可笑しくなって笑った。
両頬に手を当てて、アオイは気持ちを切り替える。先ずはなにか、お腹に入れなければ。 自分にはまだやることがあるのだと、彼女は自分に言い聞かせていた。